大きな蟻(9/2)

何も書かないまま数日が過ぎた。書きたいが書けない、こんなにハードルの低い日記でも体が思い通りにならないということはある。

思えば、悪いことばかり考えてきた。最近もそう。あいつが嫌いだということはほとんど考えないが、自分なんてという嫌悪・自信のなさばかり頭のなかに渦巻いている。こういうとき「自分なんて」と考えるのは自分の外側にある様々な物事に接するのを諦めさせる理由になる。この歳になって改めて思うけれど、やはり他者は未知で怖いものである。
こういうのは自分に対する甘さ、傷つきたくなさが発露しているからなのだけれど、それをいくら自認したところでぐるぐると円周上を回り続けてしまう。そして気づけばまた同じところにいる。

私の10代は他人からの視線のこわさ/自信のなさから来る苦しさが大半を占めていたように思う。そして20歳くらいからは実家を離れ強固な教育機関から外れたことから、他者からの視線や自信はある程度コントロールできるようになった。人に会いたくなければ外に出なければいい。自信がなくとも社会的に正解とされる振る舞いを身に纏っていれば、中身を問われることはない。
これらも運良く手に入れられたものであるけれど、そうすると今度は孤独さが際立つようになった。個人的な自由と引き換えに「どうしたって1人」という認識がうまれる。頼れる親密な人たちは身の回りにいるけれど、彼らがいてもどうしたって絶対的に1人なのだ。「どうせ死ぬときは1人よ」という先達からの話はよく聞くが、それを理解したとて「絶対的に孤独である」という絶望は拭いきれない。真っ黒な宇宙空間に浮かぶ地球、その写真の寂しさは私の存在にもすみずみまで浸透している気がする。

意図してないのに、最近はより強くこういう考えが発生してしまって、比較的どんよりした気持ちで日々を過ごしている。こういうときは仕方なく煙草を吸う。煙で肺を満たす、そうするといくらか救われる部分がある。私の肺に閉じ込めた分だけ、巻かれた葉がじりじりと焼かれていく。

府中のTOHOで『ドライブ・マイ・カー』を観て、いたく感激してしまったのは私の人生感に沿うところがあったからかもしれない。特に終盤の「ワーニャ伯父さん」のワーニャをソーニャが慰めるシーンには胸を打たれた。この世に生まれてしまって、どんな苦難があってもどうしても生きていくしかない、その引き受けとも言えるソーニャのセリフ、そしてワーニャ役の俳優・家福の姿...
私たちはあらゆる困難を手放せるわけではなく、どうしたって生きていくしかない。そういうことを悲観的にならず風通しよくあらわしたのがこの映画だと感じた。
私は生きていて本当に幸せなことなんてあるのだろうか、という価値観で生きてきてしまった。不幸とは思わないが、安心して満ち足りているとも思わない。人を見下し、しかし人に嫉妬し、その上で自分を否定ばかりしている。自分が誇らしいと思えない。かといってどうしようもなく、25年も生きながらえてしまった。

でも、そういった自分のあらゆる問題点にそろそろ向き合うときが来たと思っている。自分1人でいることよりも安心できる場所がどこかにあるかもしれない、そう思うのだ。他者とのコミュニケーションを諦めない、そして自分を諦めない、自分を誇らしいと思いたい。そこで生まれる傷や苦しみはきちんと引き受けたい。そこから逃げてもいいけど、またちゃんと戻ってきたい。
自分と他人の愛し方を教えてもらえなかった「子供の自分」をきちんと育ててあげたいと、強く思っている。