大きな蟻(3/7)

久しぶりにものを書く。今日でいったん終わりだから、書けるだけの心の余裕がある。いつも書きたいし、たいしたことではないが書くこともあると思っているが、書く時間がないという謎の強迫観念が書くことを遠ざけている気がする。本当はそんなことはなく、Twitterやインスタを閲覧しているくらいなら書くことに時間を充てたほうがよっぽど有意義なのだ。しかし、そうはいかない。強迫観念をコントロールすることは至難の業だからだ。時間がないというのは特に難しい。だって、時間がないということについて逡巡し、コントロールしようとしているときも時間は過ぎていってしまうから。時間が過ぎることを意識してしまう時点で、この強迫観念の内側にいることになる。だから実際のところ、思考を放棄し何も考えずに書きつけることが最もよいことなんだと思う。

 

私はこの書きたい、溢れ出るものを外へ汲み出したい、という逃れがたい欲求にどう向き合っていたか、それは別のアウトプットをするということだ。私は絵を描いていた。デッサンを中心に練習しつつ、最近は筆ペンでなにかを書くということに熱中している。デッサンはそんなに好きではない。しかし、必要があるということとおもしろみもわかるということでなんとか書けている状態だ。あと書き終わった後の達成感は半端ではない。脳内物質の量が仕事の比ではない。なので毎回「うまいな〜」と自分を褒めてしまう。だって、こんなに書けて立派だと思うのだ。

筆ペンでは、よく鳥や花を描いてみている。田中一村展のときに彼が描いているのをみて良いなと思ったのだ。あと、三宅瑠人さんのイラストもすごく好きだ。とりあえず、九谷焼の器のイラストを真似てみている。これはすごく楽しい。

絵を描いてみることは文章を書くときとは違った幸福感がある。それは見た目としていい感じの線とか影の感じをあらわせたときに生まれるものが大きい。文章ではそもそもアウトプットすること、吐き出すこと自体の喜びがあるような気がする。絵を書くときはあんまり思わない。これはスピード感の違いなような気もする。あらゆる部分を注意深く眺めて微修正を重ねていく描くことと、ざざっと赴くままに書き続けること。だから、これはきっと絵と文章の違いでもないのだろう。じっくり書く文章とささっと書く絵では後者のほうが気持ちがいいかもしれない。

 

楽しくて気持ちのいいことばかりして生きていきたい。楽しいことは大切だ。楽しい自分であることは大切だ。そうありたいけど、なかなか再現できない。最も難しいのってそういうことなのかもしれない。自分の人生にとって何が重要か、だんだん分かってきているような気がする。重要なことをやり、それ以外のことは人に任せたい。しかし、重要なことなんてそうそう簡単にかなわないから、人生って苦しいのだろう。それは生きる苦しみというものなのだろう。私はその第一歩目に立とうとしていて、これからはかなわない方を知ることになっていくのだと思う。それでも楽しく生きていきたい。