歩くことでネジは巻かれるのだ

今日は21時過ぎまで仕事をして、いい加減疲れたから帰ることにした。エレベーターに一人で乗って地上に降りる。あんなに高いところに立つことができて、仕事をしているなんて不思議だ。スケスケのガラスだったら宙に浮いているように見える。

裏口から外に出ると、意外とあたたかいなと感じた。朝方に「今日はあったかそうだね〜」と話したのは正しかったらしい。空気は湿っぽく、雨が降りそうな予感。そう言えば後ろの席の先輩が傘を持って帰るように言ってたっけ。空気は寂しさを孕んだなんとも言えない匂い。たまらない。年に数日こういう日がある。台風の直前なんかも同じような匂いがする気がする。気分が良くなって、遠回りをして帰ろうと思う。

狭い道が好きだから、会社から神保町方面へ、大通りではなく裏道を使って歩く。当たり前だが、夜だからあたりは暗い。それでも、街灯が沢山あるからこの街には本当に暗い場所なんてそんなにないのかもしれない。私の地元には本当に暗い、光の入らない場所が確かにあったような気がする。それは"その場所には行ってはいけない"という意味であった。暗さは、危ういものからの警告なのだ。
緊急事態宣言のせいか、人通りが極端に少なくて嬉しい。大晦日の夜ような、非日常的な人の少なさにはわくわくしてしまう。歩きすすめ、カレー屋のボンディの前を過ぎ、小学館の脇を通り過ぎる。そこで、神田川と高架になった首都高に突き当たる。私は恍惚としてしまった。高速道路の高架はどこかノスタルジックだ。私は一人で歩き回ってきた瞬間瞬間を思い出していた。京都で何もわからずふらふら歩いた道、夜行バスで東京から名古屋に帰ってきた時の感じ、あるいはイルクーツクで宿を探して歩いているときに渡った橋。どの瞬間も一人だった。私は一人であてもなく歩くのをこよなく愛している。無目的に歩けば、それはすでに旅である。どこでだって旅はできるのである。
私は今日歩きながらネジを巻き直している気分になった。ここ一年ほど、あてもなく知らない道を歩いた経験をしてなかった。久々に歩くとその喜びが、興奮が、内的感動が沸き起こってくるのを感じる。神田川沿いに歩いていくと、九段下の駅に着いた。通り沿いに長い坂があったので登ってみる。地元の銀杏坂という坂に良く似ている。左手の川沿いには桜が植っている。冬だから茶色い幹が露出しているのが目に入る。ふと、私はあと2ヶ月後に桜が満開になっている時期を想像してみた。綺麗なうすピンク色の花弁が散り、行き交う人々は明るい顔できれいだね、と言いながら通り過ぎてゆく。暖かい風がゆっくりと吹き、川の流れはゆるやか。でもそこには私はいない。どこでもない場所から眺めているのだ。私はその場でとても安らかな気持ちになっている。と、考えているとなぜだか涙が出そうになった。別に悲しいわけでも怒っているわけでもない。ただ、桜が咲く季節がちゃんと来るであろうこと、そしてそれは私の存在有無に関わらずきっと何度も訪れるだろうことが、とてつもなく素敵なことに感じたのだった。

そんな経験をしている間も私は歩くのを止めなかった。ネジは巻かれ続けている。