大きな蟻(1/10)

ここ数日猫をよく見ている。と言っても、猫によく遭遇するという話ではない。猫を詳細に観察しているのだ。

ついこの間『あなたは、なぜ、つながれないのか ラポールと身体知』という本が文庫になっていたので買った。タイトルを見て少し恥ずかしくて買うのをやめようかと思ったけど、「ラポール」という言葉が入っているのが気になった。
ラポールとは、広義では相手と自分のあいだの安心した信頼関係を指す言葉だ。この言葉のおかげで「もしかしてちゃんとしたことが書かれているのかな」と思い買ってしまった。

この本は、まずはじめに自分と相手をよく観察してみることを説いている。プロローグでは渋谷のスクランブル交差点を歩いたときに、自分と周囲の人々をよく観察した描写が描かれる。それを読んでハッとした。自分がすでに鈍感になってしまっている、周囲からの苛立ちや混雑に対するストレスが正確に描かれている。

ほくは、舌打ちや肩のぶつかりを、無意識のうちに自分に感じさせなくしてしまっていた。疲れで感覚が鈍ってるのかもしれないし、傷つかないための防衛反応かもしれない。
でも、少なくとも目の前のことをきちんと認識できなくなってしまっていた。これは問題だ、と思った。

そういうわけで猫をよく見ている。今日気づいたことは猫の耳がとても敏感に動くことだ。よく回るし、高さも自由自在。遠くの音を聞きたいときは耳をピンと立てる。瞬きはゆっくりする。そして、目は完全に閉じてるようではない。瞳孔はこまめに拡大と収縮を繰り返す。そしてとても大きい。明るさと暗さを繊細にキャッチして、だから目が良いのかもしれない。

話す人のこともよく見るようにしている。まだよく分からない。その人の顔の動きや手ぶり、視線の流れが何を表すのかはっきりとは認識することができない。
でも、この人は何を話したいのか、ぼくは何を話してみたいのか、よく想像するようにする。そしてゆっくりと、自分のペースで話す。そうすると自分の言葉でしゃべれる。そして、どんなときでも自分の言葉で話している自分の姿を想像する。
ぼくはまだ相手の見かけや立場、言葉の強さと大きさに誤魔化されて圧倒されてしまう。自分の弱い部分を見せられなくて、そうすると自分がより一層弱くて恥ずかしく感じられて、あっさりとやられてしまう。自分の言葉は自分の思いから離れていく。本当に言いたいことが分からなくなる。相手の大きい声に従ってしまう。


そういう自分は家に帰ってからが本当に悔しい。悔しくならないために、きちんと相手と自分を眺められるようになりたい。