大きな蟻(1/11)

記憶というのは不確かなもので過去の記憶はすぐ曖昧になってしまったり自分の都合の良いように改変されてしまう、と習ったのは大学2年の「心理学1」の授業だった。そのとき僕は、まあそんなもんだろうなと思って聞いていた。先生はそれを実証するいくつかの例を挙げつつ、学生たちにも馴染みのあるような喩えでユーモラスに説明した。なかなか話の上手い先生だった。僕は一人で講義を受けており、先生の話に静かに笑ったり考えたことを忘れないようにプリントに書き留めたりした。

     *

今日は昼過ぎにうどんを茹で、昨晩の豚汁をベースにつゆを作り食べた。同居人にも同じものを食べさせる。洗濯物を干そうと思ったら、洗濯機が壊れていて脱水ができていなかった。もう一回セットして、終わったら干しておいてと頼んで家を出た。エレベーターを降り、最寄り駅まで歩いている途中に、両側を過ぎていく木を眺めていたら唐突に思い出したことがあった。

小学生のころの僕はよくぼーっとしていた。いまでも一人のときにはよくぼーっとしている。本をよく読んでいたし、おとなしい子供だったのかもしれない。
多分どこの学校でもそうだが、小学校では定期的にクラスの席替えがあった。みんな「好きなひとと隣になれますように」とか「怒られたくないから後ろで目立たないところに」と願っていた。僕もみんなに合わせて「後ろのほうがいいな」となどと言っていたが、本当はいつも窓際の席になってほしかった。窓際の席になれば、もっと気楽でリラックスした自分でいられるような気がしていた。それは窓の外には校庭や車の行き交う国道が見えていて観察するのに飽きなかったからかもしれないし、あるいは明るい光と青い空が自由というものを想起させるからかもしれなかった。
運良く窓際の席になったときには、延々と外の景色を眺めていた。授業のあいだの5分間休憩はもちろん、授業中も話はそこそこに外ばかり見ていた(そしてたびたび「前を向いて」と先生に注意される)。校庭には体育の授業をする低学年の児童たちや、掃き掃除をする清掃員のおじさん、立ち並ぶイチョウの木や花壇のサルビアが見下ろせる。僕はそれらを見ていいなあと思った。別に体育がしたかったのではない。そういうのを眺めていられる時間を快く感じていた。そしてそれをずっと見ていられる「木」をとても羨ましく思った。ぼくが木で、そこに立っていることができれば全てを見ていることができる。一日中、ずうっと見ていることができる。なんて素敵なんだろう。木は大きいから倒れることもないし、根っこで地面と結びついているから立っていても疲れないだろう。それに時間の流れ方も違う気がする。彼らは寿命が長そうだから、もっとゆっくりとしたスケールで思考しそうだ。
そういう欲望はたびたび起こっていた。対象は堂々としていてずっと残っていそうなものばかりだ。ブランコはだめ、電柱はOK。黒板はだめ、給水塔はOK。僕は誰からも見られたくなかったけど、安全に世界をただ見ていたかった。

歩いている道中の瞬間的なことを、純粋に記録しておきたいと思った。僕はあれから歳を取るにつれてあらゆることを忘れてしまってきている。これからもあらゆることを忘れるけれど今の僕には何を忘れてしまうのか分からない。そしてあると思っていたものがなくなっていくことは怖ろしい。そのおそれを抱えながら、今できることは書き留めて置くことだけなんだと思う。書き留めることは(まず第一に)純粋に自分のための行為だ。この世界のどこかにこっそり自分の一部を埋めておけば、あとで取り出せる。
冬眠から目覚めた空腹のリスが埋めておいたどんぐりを地面から掘り出すかのように、将来の僕はどこかからこの文章を引っ張り出してきて読むのかもしれない(正確にはインターネットのサーバーを経由して覗きにいくわけだけれど)。