無題の生活2

ちょっと恋人と離れて暮らしている。一年ほどほとんど同じ家に住んでいた。けれど、先月行った瀬戸内旅行のあとくらいから、お互い相手へのストレスが見えるようになってきてしまった。なんだか、息苦しいのだ。

一緒にいることをちょっと休憩してはどうか、そう切り出そうと思っていたら、恋人のほうから行ってきてくれた。話には具体的な不満も添えられていたけど、結局それだけじゃないんだろうなあ。こういうのは不満の原因を解消すれば終わるものでもないように感じた。だから、やっぱり一月くらい離れて暮らすことにした。

 

でも、土日は普通に泊まったり、遊んだりする。そういうことができるように自分の家を解約せずに残しておいた。持つべきものは家だ。

 

最初は本当にきつかった。結果的には恋人から言い出されたことでもあり、好きなひとから拒絶される感覚はほんとうに身に応える...。その後、数日間は純粋にさびしく、仕事をする気がほとんど起きなかった。なんでこんなことをしなきゃいけないんだ、生活をやらせろ、と熱のない頭でタスクをこなしていた。しかも生活が変わったから午前中は迷走神経反射でふらふら。週の後半からようやく集中して打ち込めるようになった。

 

離れて暮らすことで、心理的にも離れて関係を見られたのはいいことだった。きっと二人は、近くなりすぎてしまったのだろう。近すぎると、甘えが生じる。ぼくは迷った。

近くなりすぎないよう最適な距離をキープしていくのと、近い距離に適応しつづける、のどっちがいいんだろう。結果から言えば、ぼくは前者を選んだ。だって近い状態に慣れるためにはかなり大きなストレスを感じつづけることになるだろう。近さには際限がないし、近づけば近づくほど破滅のリスクがあがるようなきがする。共依存的なことだってそうだろう。

というよりも前に、ぼくはこういうことを信じているのだ。人と人はすべてをわかりあうことはできず究極的には孤独である。私たちは生まれながらにして他人にすべてを分かってもらうことはできない。だから、何となく、寂しくなる。

 

これから二人は最適な距離を探していくことになるんだと、ぼくは思っている。でもそれは相手から逃げているわけじゃないと思う。むしろこれはほんとうの意味で相手と付き合っていくために、なるべく長く同じ時間を過ごすためにする必死の抵抗だ。私たちの近くに潜んでいて、時折すべてを壊そうとする大きくて邪悪な存在に対する抵抗だ。

 

そして、その抵抗の時間が長ければ長いほどそこに価値はあるのではないか、と思っている。というより、すがるように、信じている。

 

追記1

人と人はわかり会えず絶対的に孤独だ、とぼくは書いた。たぶんこれは中学生の頃から妄信している考えだ。書いた時もそう考えていた。しかし、これは本当にそうなのだろうか?  実はぼくが信じていることは間違っていて、そうじゃない世界が広がっているのではなかろうか?

そもそも、この考えを持つに至ったのは家庭環境が大きい。母は個人主義者、父はネグレクトでほとんど顔を合わさなかった。二歳年下の妹が生まれてからはやはり母の育児の対象もそちらへ向かう。幼いころから一人ぼっちだと感じていた。だからこそ本の世界に救いを求めることができたのだとおもう。けれどもその孤独感は癒されることなく、いまもぼくの中に残っているようだ。

そしてそれを当たり前だと感じている。

だったら、それに抗うことがぼくの自己改革なのではないだろうか。生きることの意義になるのではないだろうか?

実家を離れたくてしょうがなく、高校卒業と同時に500kmほど離れた土地に引っ越した。おかげで、ひとまずの呪縛からは解き放たれた。次は、ぼく自身の内部と向き合わなければいけない。きっと根気を要し、苦痛の伴う試みだろう。でもこのままにしておきたくないのだ。

ぼくはこういうことをし続けてきた恋人を尊敬している。そしてぼくもそうならなければいけない。