大きな蟻(11/11)

デザインを勉強しはじめてから、自分自身のこと・からだ・感覚に興味がわいてきた。というか、それをやらねばならぬ...というような気持ちになっている。
というのも、デザインとか美術ってものすごく自分に近いところから始まる気がするからだ。作ったものには作った人の意識や無意識、習慣みたいなものが必ず出てしまう。自分を完全に切り離して何かを作ることはできない。そういうことを僕はまったく分かっていなかった。何かを作ること、書くこと、語ることは必ず自分からはじまる。25年も生きたのにそんなことも分かっていなかったのだ。

とはいえ、もはや仕方のないことだと思う。環境的にそうなる理由はたくさんあった。父が育児上の不在だったために自分を抑制して生きてくるしかなかったということもあると思うし、進学校で理系の勉強を進めたことも一因になった。理科や数学は何かを話すときに、その根拠を法則や原理に求めるからだ。何が正しいか、は自分の意見とは関係ない。勝手に決まってくるからだ。どの解き方を取るか? ということに自分自身の考えは必要だけど、それを使うことには自分らしさは要らない。理系科目では「問題が機械的に解ける」なんて言い方をよくするけれど、本当にそう。大半の場合、計算すること自体は自分の存在なしにできてしまう。記憶力と整理する力があればいい。

自分と向き合うことはやっぱりむずかしい。デザインの師匠は「見れば体が判断してくれるよ」と言って、身体の反応するところを知覚するようにアドバイスをくれた。きっとそうなんだろう。でも、まず僕にとって判断することが難しい。すっ飛ばして、これどうですか?と見せてしまいそうになる。でもそれは正しくない。まずちゃんとそれを見て、自分がどう感じるかを知ること。それがいいものを作る一歩目なんだな〜と半年ほど経って分かってきた。気づいたら透明人間になってしまっていた。僕にはちゃんと体があり、目がついているのだから、しっかり見ないといけない。その上で、ちゃんと受け取る体も必要。自分の体もなかったことにしていたような気がする。だから、体があることを信じるようにする。そのために、できればダンスとか演劇とか整体とか、そういうこともしてみたい。きっといいものが作れるようになると思う。これまで自分をないことにして、殺してきたような気がするから、これからはその逆のことをしていかないといけないと思っている。