声の大きさ、正義

ここ一年ほど「炎上」に乗れないことが多くなってきた。炎上の多くは批判で構成されており、ほとんどのケースにおいて私もそれに同意する。だけれど、同時に息苦しさのようなものを感じて一歩引いてしまい、それについて何か人に聞かれたとしても「うーん、それは彼が悪いとは思うんだけど...」という歯切れの悪さを見せることになる。

1年ほど観測してみて分かったのは私は政権や企業に対しては100%の批判をできるが、個人の悪事や失態に対してはそう言いきれない価値観を持ってそうだということ。人殺しや暴力には「絶対ダメだ」と言うが、同時にそれをしてしまったのは何故なのかという疑問や、反省や償いをしたならやり直しても良いという許しがある。一方で政権や企業による暴力・搾取には断固として許せない、という頑なな意思を持っている。絶対に加害者たちは組織をクビにし、ポストを一新しろという主張ができる。
たぶんこの二つの対応の違いは「自分も何かのきっかけで間違えてしまうかも知れない」「組織は個人ではない」に尽きる。

炎上に乗ることができないのは、きっとその声の大きさにあるんだと思う。炎上に対して発せられる「正論」「正義」があまりにも大きく強く速いものになりすぎていて、見るだけでちょっと疲れちゃうというか...
そりゃ「正しい」し頭では分かるんだけど、攻撃しようという意図の声が見えてしまってキツいという例が多い。また、別に正論を言いたくないのに、YESかNOで大別すると正論、になってしまうのもキツい。間の意見もある。自分にとっては判断が早すぎるというケースもある。もうちょっと背景や本人の発言を聞かないと分からなくない? と私だったら思う場合も、多数が即座に悪だと切り捨てる世の中になってきている。
我々を守るもののはずだった正義というバリアーが、逸脱を許さない壁に見えてしまうような... 結局「数」という暴力を人にぶつけてるだけのような気がしなくもない...

最近、これは小山田圭吾小林賢太郎、さらには(元々大嫌いな)DaiGoあたりについて特に顕著に感じたところ。3人ともまったく擁護する気はないし悪いことをしたと私は判断するが、それをSNSで非難はしなかった。一方でこれがキャンセルカルチャーとも思えない。ただ、反省と謝罪を個人的にしてほしいと思う。刑事事件でも税金を無駄にしたわけでもないので、私たち市民に謝る必要はないと考える。
私が避けようと思うのは、数による「とても巨大な正義」を振り回して、相手を亡き(無き)者にしようとすることである。声はもはや暴力的で、個人に向けられるにはあまりに重すぎる。
Twitterはあまりにも巨大さが可視化されやすい。素早く短い文章を書くように設計されたサービスにおいては、人間はどうしたって軽率で分かりやすいことを書いてしまう。結果声が大きくなる。システムに対抗できるはずがない。

だから、私は自分が正しいとしても誰かを非難する言葉を公に見せることは避けようと思っている。私の(本物の)声が聞こえる範囲で話す。
そして、それを忘れないようにこう考えるようになった。いま小山田圭吾が、小林賢太郎が、DaiGoが自殺したら、誰が責任を取るというのだろうか? 自分の行為については自分で責任を取れる範囲におさえておきたい。