大きな蟻(7/27)

久しぶりに溜めてる仕事もなく、清々しい日。しかし準仕事みたいな事象が、まだまだ、たくさんある。そして相変わらずお金はない。ずっと金ね〜って思ってる気がする。なんだかんだ生きている。

最近は悪はどこまで叩かれどこから守られるべきなのか、みたいなことを考えている。小山田圭吾小林賢太郎も、叩こうと思えばいくらでも叩くことができる。呪詛みたいな言葉も永遠に(気持ちよく)はき続けることはかんたん。貶して見下し、許さず辞めさせる、永遠に出てこれないようにする、ことは簡単だし分かりやすい。なるべくきびしい罰を与える、ということ。でも、でも、私はそこに違和感がある。

両者ともダメなことをした、そして何らかの報いがあるべきだと思うのは当然のことだ。だけど、それは社会的であるべきなのか?という疑問がある。彼らはもっと個人的に怒られるべきだし、反省し繰り返さなければそれで十分だろうと私は考える。つまり、被害者に呪われ近しい人に怒られ、きっちり反省すればそれでいいのではないか。それ以上──圧倒的多数の人間に呪詛のような言葉を浴びせられる、あるいは仕事をできなくさせられることなど──の罰は不要なのでは無いかと思う。インターネットによってすべてが見えてしまう(それも歪んだ姿で)世界では、言葉が誰かに集中すること自体が致命傷になりうる。一生治らないトラウマを抱えてしまうかもしれない。もし仮に彼らが自殺してしまったら、誰がその罰を受けるのだろうか? 

 

 

私はよく間違いをする。女性を蔑視する言葉も言ってしまったことがあるし、はるか昔は人種差別も無意識にしていただろう。でも、あとで間違いに気づき、反省し、繰り返さないようにしてきた。だから、他人が間違えても何も思わない。そりゃ被害を受ければ怒る。しかし、いつか機会は与えねば、とも思うのだ。だから10年以上前に犯した過ちを彼らがきちんと内省するのであれば、それで良いと思う。そして、内省を促す人はこんなに多くなくていいと思うのだ。もっと個人的な叱られをしてほしい。そして個人的に反省してほしい。何かが過剰になっている、と私は思うんだけれど。