大きな蟻(4/6)

最近、気分が落ち込むことが多いので落ち着くまで日記をつけることにする。

 

昨日は雨で、本当は家にいたかった。けれど外出しなければいけない用事があったので家を出た。明大前のパートナー宅を出て、下高井戸まで傘をさして歩く。歩いていると「ああ、何もしたくないな」と、ふと思った。それからしばらくして「クレジットの支払いが心配だ」と思った。そして「早く働かなきゃ」とも「将来暮らせるのか心配だ」とも。昨夜は心配になって遅くまで働き口がないか探してしまった。好条件のものは見つからず。心配は心配のまま翌日に持ち越された。ああ、嫌だなと思った。私はこんな不安になりたくない。何も心配せずに、楽しく暮らしたいだけなのだ。生存といういたってシンプルなことがどうして当たり前にできないのだろうか。生まれてきたことが悪かったのだろうか。これまで会社を辞めることを友人に勧めもしたが、こんなに不安になるならあまり無責任に勧められないな、と思ってしまう。

 

そして今日も憂鬱である。空は曇り。体が重く、何もしたくない。そして眠い。人とあまり話したくないし、本当は仕事も課題もやらなければいけないがまったく気力がない。昼前にパートナー宅をでて、阿佐ヶ谷の自宅へ。途中、サイゼリヤで自分を甘やかそうと思い、ラムのステーキとサラダとドリヤを食べた。お腹が膨れると心配は少し減った。

家に帰って今度こそ、とパソコンを開いたが相変わらずの無気力状態。Twitterを見るのさえうまくできない。情報が鬱陶しい。頑張って何かをしようという気持ちがどこかへいってしまった。すべてが面倒になってしまう。洗濯だけはなんとなくできて、洗濯機と乾燥機を回した。家事は救いになることもある。

夜は友人の誕生日を祝う予定があったので外出。ケーキがあったほうがよいのかなと思ってケーキ屋を2軒回るも、どちらも休みだった。仕方なく駅のFLOでショートケーキなんかを買った。自宅の冷蔵庫で冷やしておく。人の誕生日に立ち会えるので、気持ちはある程度復活していた。楽しみである。待ち合わせの高円寺にむかう途中で花を買っておく。選んでいるあいだは楽しかった。そして花をあげるのも好きだ。友達に花をあげるとこちらまで嬉しくなってしまう。

 

改札前で合流して花を渡し、行きたいというお店に向かった。飲み物も料理もおいしかったし、話も楽しかった。私は友人の話を聞くのが好き。だけれど時間を過ごすうちに何故かだんだん気持ちが落ちてきて、う〜ん困ったな無性に悲しくなってしまった。泣きたい気持ちになったし、泣いてもきっとそれを許してくれる関係ではあるが、せっかくの誕生日だからと思って目をぱちぱちして堪えた。高校3年生の受験勉強中、廊下で話していた同級生が急に泣き出してしまったことがあった。あの子はそのときこんな気持ちだったのかな。僕はなぜかその時のことを強く覚えていて、誰かと話しているときに急に泣きそうになると、頭の中ではその子のことが思い出されるのだ。

というわけで、友人がデザートにプリンを頼もうとしたときに私はそれを制することはできなかったし、プリンを食べたうえで「ケーキ買ったんだけど食べて帰ったら」と誘うことはできなくなってしまった。普段なら何気なく言える言葉も心が悲しいだけで言えなくなってしまう。怒りに抗う方法は分かっても、悲しみを取り除くことだけはできない。共有することはできるが、悲しいときにはそれもまた難しいように感じてしまう。

 

「またね、誕生日おめでとう」と言って友人と別れてから、私はいわれのない悲しみをやりすごしたくて、少し駅前をぶらぶらした。歩いていると気が紛れる。

しばらくして帰って、ああケーキ食べないとなと思って冷蔵庫を開ける。ケーキは箱と袋に入ったまま一番上の段に置いてある。買うときには店員に「お持ち歩きはどのくらいですか?」と聞かれた。「家は近いので保冷剤はいりません」と答えた。「あ、一応、ロウソクを付けてもらえますか?」と私は付け足した。「短いほうでいいんで」とも。

冷蔵庫からケーキの袋を取り出した私は上にちょこんと載ったロウソクを見てやっぱり悲しい気持ちになった。5本入ったロウソクは本当は使われるはずだったのに、使われないことになった。私がちゃんとしていれば5つの小さい炎が灯されるはずだったのに。その気持ちのまま、苺のショートケーキだけを取り出して一人で黙って食べた。あんまり甘いとは感じなかった。こんな気持でもおいしく食べられてしまう。

 

紅茶はいれなかった。