大きな蟻(6/26)

朝起きるとすごい元気。午前最高!という気持ちで仕事に入る。いまの気持ちは田島ハルコのLINEスタンプでしか表せない。元気すぎて逆に仕事に集中できず、ゆっくり進める。今週はTwitterの担当だったので気持ちが落ち着かなく、水曜は仕事を辞めて片付けをする夢を見た。急に出ていかなくちゃいけなくなってすごい焦る夢。

イエローページを無事に配信できた。嬉しい。宣伝するとちょっと登録者が増えた。やったぜ。ゆっくりでも積み重ねることが大切。

日記やエッセーをばらばらと書いているが、これは音楽ではセッションのようなものかもしれない。自分と自分と自分と自分のセッション。一般的な観念について述べてるのではなく、あくまで個人的な解釈の問題だが。

僕は日記を書く行為の仕組みはこんな感じだと思っている。ある記憶とある記憶が相互作用を働かせ、それが動力となって僕の指を動かし、テキストが自ずと画面に現れてくる(ように感じる)。そこでは僕は見ているだけとも言えるし、同時に考えてもいる。感覚と記憶がお互いを参照し合うことによって瞬発的に生み出されつづける。その応答をメタ的な自分が意識して調整していくという意味で、それは音楽でいうセッションぽい。そういう書き方がひとつ、自分の中にあると個人的に思っている。

もう一つ、これと反対に熟考された世界を書くことによって設計どおりに構築していくという書き方もあると思っている。もちろん書き方なんて二分できるものではないが、こういう書き方をやってみたい。ただ書くのではなく意図的にテキストを積み上げていく。曲やアルバムを作るのはこっちに近いと思っている。こっちの方がいまは憧れがあって、パッケージされた完成品をドロップするというかっこよさがあると思う。

メルマガやってて思うのは、これがwebマガジンではなくてよかった〜ということだ。それだと文学のマガジンの形式はあまり成立しない。webマガジンだと月に1回まとめてドロップする、みたいなやり方はあまり適していないんだと思う。別にやっても良いんだろうけどインターネットに検索機能がある限り、いくらでも他所からの流入があるのでパッケージとして読んでもらうことは難しい。
メルマガなら流入はないし、ひとつづきのテキストとして読めるのでより雑誌に近いし、それぞれのテキストの関連にも気付ける。拡散性や完読性、場としての機能には難があると思うが。

それでも僕はメルマガが好きで、それはメルマガは"日常のサプライズプレゼント"だと思ってるから。インターネットやテレビは、単なる日常になっていて驚きがない。モノを買うのは能動的でコストもかかる。モノのプレゼントをもらえるのが一番良いが頻繁にはもらえなかったり、実は予定調和的だったりする。
その点メルマガは非日常的で、予想外に、無料で、受動的に、何かをもらうことができる。意外と独自性があるメディアなのだ。一回性があるというのもおもしろい。

こう考えると本をあげること・読むことにも近いものを感じる。本は読むまでわからない、というのはハードルのようで実は逆にとんでもない利点なのではないか。そこにヒントがある気もする。

全然日記じゃないがここで終わりにする。