『君の名前で僕を呼んで』から連想される断片的な事柄

今日、新宿武蔵野館で『君の名前で僕を呼んで』を観た。一番後ろの席の真ん中付近で観たので、映写室の窓から出る光を近くに感じながら鑑賞した。

実に良い映画だった。何度も泣いた。個人的にはこの映画のテーマの1つは「輝かしい青春が過ぎ去ってしまい二度と帰ってこないことの儚さ」だと思っている。



僕はついこの間の3月に大学を卒業し、その土地を離れ東京で働き始めた。大学では深く狭い友達付き合いをしていて、決してイケてはいないけれども心からリラックスでき何でも話せる親友たちに出会い、遊んでいた。
暇な時に家に上がり込んでコタツでだらだら過ごしたり、発泡酒飲みながら桃鉄をやりまくったり、朝まで話したり、永遠にも思える時間をただ浪費していた。

そういった時間の儚さというのは終わりになると気付くもので、彼らと過ごした卒業旅行や卒業式のときに「ああ、もう少しアイツんち行っとけばよかったな」とかなり後悔した。別れが寂しくて就職なんてしなければよかったとさえ思った。
あの時期にあの場所で友達と作っていたキラキラした空気感や場は、もう一生手に入らない。
それはとても寂しいことだ。



映画の中で自転車を漕ぐシーンが多用されている。そこからフラッシュバックしたのは高校の記憶だ。僕はバスケ部だった。高一の時、部活終わりはいつも友達と自転車で帰っていた。うち一名はヤンという韓国人の親友だった。みんなで帰り道にファミマでホットフードを食って帰ったり、別れ道でだらだらととりとめのない話をしたりしていた。くだらないことに真剣で、暗くて先の見えない坂道を自転車で全力で突っ込んで走りきれるか挑戦をしたこともあった(僕は田んぼに突っ込み、ヤンは川にチャリを落とした)。

そんなことももう記憶のなかではとても遠いことになってしまった。ヤンは震災の影響で韓国に帰り、他の友達とも大学進学で散り散りになった。いまでも時々その時の友達には会うけれど、当時特有の輝かしい空気、「おれたちは無敵だ」とでもいうような高校生のときの万能感はもう一生味わえないんだろうなと思っている。


色々なところで別れというものは存在し、楽しかった人や場所、時間もただの過去になってしまう。そして悲しいことに、それは決して避けられるものではない。

でも、そのときの思い出は自分の中で生き続ける。過去を顧みれば、ありありと当時の情景を思い出し、「あの時は楽しかったなぁ」と当時の眩しさに目を細めることは可能なのだ。

そうやって、キラキラした記憶を一つ一つ集めていってコレクションし、それを眺めながら死ぬのが僕の理想の老い方だ。
ルビーでも、ダイヤモンドでも、普通の石ころでもいい。とにかくいろんな石を集めていくこと、人生の酸いも甘いも苦いもしょっぱいも全て味わい尽くすことが大切なんじゃないかなと思っている。そしてそれが自分の人生を彩り、豊かにしていってくれる。



そんなことを映画を見ながら思った。