ビニール傘を忘れた後で思った

 

誰でも一回は傘を忘れた経験があると思う。

 

 

それは電車の中だったり、喫茶店だったり、はたまた出先の本屋だったりする。

今日みたいに1日中雨が降る日は、1日中傘を使うから、傘を忘れることはほとんどない。

危ないのは雨のち晴れの日とか、朝から雨が降りそうで降らない日だ。

 

 

僕はビニール傘が好きでよく使っている。それはどこでもすぐ買えるから、とか安くて使い捨てられるから、とかそういうことじゃない。つやつやしている上に透明なところが好きなのだ。

ビニール傘でも、半透明のやつじゃダメで、透き通っていて程よく肉厚なビニールがいい。

 

 

500円くらいで買えてしまうから、忘れたときのダメージは、ほかの傘に比べれば少ないと思う。

でもそれは金銭的なダメージであって、お気に入りの傘がなくなったという意味ではやっぱり悲しい。

 

 

からしばらくはその傘のことを考える。

 

 

電車に置き忘れたとしたら、僕の傘は僕が乗っていた電車の終着駅までたどり着くだろう。

会社から帰るとき、僕は神田駅から乗って中央線快速で阿佐ヶ谷駅へ向かう。

よくあるパターンとして、阿佐ヶ谷駅で降りるときにビニール傘を忘れる。

そうなると僕の傘は豊田駅とか高尾駅に到着するんだろう。

もしかしたら電車はその後中央線を何往復かして(通勤快速だったり、快速だったりする)、夜には車庫に帰る。

 

 

車庫に帰った電車は、JRの職員によって点検されたり掃除員によって清掃やゴミ捨てが行われる。

見つけられた僕のビニール傘は捨てられるか、はたまた遺失物係に回されるのだと思う。

 

 

遺失物係に回された僕の傘は、ほかの大量の忘れ物の傘と一緒に保管される。

できればその傘は遺失物係の傘立てのような場所で、いつまでもずっと保管されているといい。

地下に作られたひやりとするコンクリートでできた建物の片隅で、ひっそりと僕が取りにくるのを待っているのだ。

 

 

そして僕はそれに無頓着に、毎日をせわしなく過ごしている。

新しい500円のビニール傘を手に持って、傘を忘れたことを忘れている。

 

 

僕が覚えていないところで、かつて繋がっておりいまでは繋がっていないものが存在している。

覚えていないってことは本人の中には存在しないも同じだ。

だけれど、それでもビニール傘は存在し続ける。僕を待ち続ける。

 

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それは美しいことなんだと思う。