茶碗と愛

 恋人と半年以上暮らしてきたが、つい最近まで僕の食器は一つも無かった。普段使うコップや皿、茶碗などは全て恋人や、恋人の家族のものを使ってきた。考えなしに、ただそこにあったから、当たり前のように使ってしまっていた。自然と使っていたので、僕は恋人に食器を使っていいか聞いたことはないが、それはもしかしたら誰かが毎日使ってきた茶碗だったのかもしれない。恋人には恋人用の茶碗があるように、その茶碗も誰かの専用だったんだろう。そのことに今更気が付いたのだ。想像力に乏しくて悲しくなる。


 ある時期から恋人は僕専用の食器が一つもないことを気にかけていて、ある日「飯村、自分の茶碗欲しくないの」と聞いてきた。僕はあるものを使えばいいと思っていたので、「別にいらないんじゃないかな。欲しければ自分で買うよ」というようなことを話した。恋人はその後も、もごもごと話していたが、それがなんだったかは覚えていない。


 それからしばらくして恋人は突然、僕の茶碗を買って帰ってきた。僕ははじめ気づかなかったのだが、夕飯の時に「それ新しい茶碗だよ」と言われてハッとした。本当だ。いままでの家にはない形と模様の茶碗だった。原宿から渋谷に向かって歩いていく途中にある雑貨屋で買ったのだという。家にある他の食器と似た模様だったので「九谷焼?」と聞いた。いや、やちむんだ、と返事があった。


 その日の食卓には恋人の得意な唐揚げとか、マカロニサラダとか、実家とは味つけの違うみそ汁なんかが並んでいた。すべておいしい。僕は食卓を囲み、当たり前のように笑いながら想起する。ああ、ここに本当に座っていたかった人はもういなくなってしまって、代わりに自分なんかがこの場所に座っている。初めはその事実に、僕は自分一人で傷ついていた。自分よりこの場所にふさわしい人間がいるのではないか。


 しかしどういうわけか、最近では感傷的になることは少なくなった。ここにいるのは自分でもいいんじゃないか、と思えるようになったのだ。それはきっと恋人が僕の茶碗を買ってくれたからなんだと直感している。自分の茶碗を持つことで自分の居場所を得たように思えるのだ。僕は毎日自分の茶碗を持つようになった。僕からは右手に持った茶碗の中にはお米が入っているように見える。僕は、これが愛なんだと思った。僕の茶碗には愛が入っている。毎日毎日、お米をよそうとき、そこにはちょっとずつ愛も含まれているのだ。
割れてしまわないように、僕は茶碗を丁寧に机に置くようになった。