去年のカレンダー

去年使っていたカレンダーは祖父から貰ったものだった。私は祖父の正確な年齢を覚えていないが、少なくとも85歳よりは上のはずだ。

祖父は山登りが趣味で「いつかエベレストに登ってみたい」と常々話していたらしい。山形に単身赴任して長く勤めた会社を定年退職し、その後も東京のアンテナショップで働き続けた祖父の夢はなかなか叶うことがなく、気がつけばエベレスト山には登れないほどの高齢になっていた。祖父は祖母、叔父と埼玉の一軒家に暮らしている。登ることはかなわないけれど一目見られれば良い、ということで祖父はネパールに向かった。


私は高校を卒業してから、自分の実家も祖父母の家もほとんど訪れていない。だからこのカレンダーが私の手に渡ったのも偶然のことだった。
東京で一人暮らしをしている妹から「これ、じじのおみやげ。みんな要らないって言うから良かったらあげるよ」と渡されたのだった。
手渡されたのはカレンダーと茶色いポーチで、ポーチの中には紅茶のティーバッグが入っていた。
カレンダーは質の悪い再生紙が束になってホチキスで留められていた。紙にはアルプスの山々の風景のドローイングが印刷されており、その上からクレパスのようなもので、人の手によって荒っぽく色が塗られていた。私は、ほしい、と言ってそれらを引き取った。そして、みんなこんな良いものを要らないなんてどうかしてる、と思った。


そのカレンダーは2019年12月31日に役目を終えてからもまだ私の部屋にある。捨てられないのだ。あらゆる思いが、それを私に捨てられなくさせている。山に登れないが一目見るだけでも、と飛行機に乗った祖父が買ってくれたカレンダーは、遠い異国の人間が我々と同じ時間を記したものだ。登りたくても登れなかったエベレストの頂上を、山の麓から眺める祖父の顔を想像するだけで泣きそうになってくる。
祖父はどんな気持ちでエベレストの描かれたカレンダーを買ってきたのだろうか? 祖父の人生は本当にエベレストに登れなかったのだろうか? 
やがて死にゆく祖父のことを考える。いつ死んでしまうのだろうか、まだ先の話ではあるが後悔のないようにしてほしいと考える。そしてそれは私にも同じことが言える。