石を集めた

小さい頃はさまざまなものを集めていた。


瓶コーラの王冠、傷ついたパチンコ玉、校庭の砂の中のキラキラ。
とにかく興味のあるものは拾ってみた。気に入れば家に持って帰って飽きずにそれを眺めた。



中でもたくさん集めたものは、石だ。
石?と聞き返されること間違いなし。だって突然に抽象的すぎるもん。
好きな食べ物は?に対して、おいしいもの!と答えるようなものだ。ちょっと違うか。いや、まあいい。

とにかく、ぼくは石を集めていた。
ぼくの住んでいた家の隣、というか斜めの方向(ちょうど南東の向き)には雑木林があってちょっとした大自然が残されていたのだった。
ブナの木なんかも生えていたから夏になればカブトムシを取りに行ったものだった。秘密基地も作ったことがある(当然、嫌な大人たちに取り壊され終わりを迎えたのは言うまでもない)。


雑木林には石と岩がある程度転がっていたから、調達にはこと欠かさなかった。
片手でギリギリ投げられそうなサイズと重量の石を拾ってきて、ぼくは実家の庭の地面に投げ当てていた。なぜかというと、石を割りたかったから。何回か繰り返すと、大抵の石は割れて粉々になる。


そして外見からは想像もつかないほど美しい断面を眺めるのであった。
平凡な石を想像してほしい、一面灰色で黒いシミがポチポチっと入っている石だ。そんな地味な見た目の石の中が、すごくキラキラした結晶で満たされているのだ。色は白っぽいのが多かった。たまに緑色のが入っていることもあったけれど、そういうケースは珍しいから喜んで大切に扱った。

道端の石でも、中身は美しいこともある。これは大きな学びだったと思う。



さて、そんな、石たちもぼくの成長にはついてこれなかった。中学生くらいのぼくは、石が勉強机の引き出しに入ってるのが邪魔に思えてきた。なので、二階のベランダから全部捨ててしまった。
残念な気はあまり起きなかった。これで大人に近付いた、とむしろ喜んでいたかもしれない。
それくらいのものだ。



石は捨ててしまったけれど、その時の喜びはまだ捨ててなくて、今でもまだ残ってる。
街で遊んでいて、ちょっと変わったものがあったらスマホを出してすぐスナップする。看板とか、駅の構内の文字列とか。あとで見返して楽しんだり、友達とか恋人に見せるために撮ってる。

そういう、個人的で密やかな楽しみや喜びっていうのは日々の生活の中に必要なんだと僕は思う。


手帳のどこかにシールを貼ってみるとか、人にもらった特別なペンをペンケースに忍ばせておくとか、柔軟剤をいいやつ使ってみるとか。


そういう、自分で行い自分で満足するだけの密かな行為やおまじないをすごく愛している。
人間らしいから。



だからきっと僕もあなたも石を拾い続けるのだと思う。

屋上に登れ

屋上は好きか?


世の中の人の80%くらいはこの質問にイエスと答えるに違いない。そのくらいみんな屋上が好きだ。なぜか分からないけど。


例外になく僕も屋上が好きだ。


はっきりと覚えている中で、一番最初に屋上に登ったのは小学五年生の時。僕は児童会(生徒会の小学生版のことだ)の書記かなにかをやっていた。


児童会の仕事の1つには国旗の上げ下げがあって、僕ら児童会メンバーは毎朝毎夕に屋上に登り国旗を上げたり下げたりしなければならなかった。僕は何故か上げることの方が多かった気がする。


そのためいろんな季節の屋上を経験してきた。
中でも、冬の寒い朝に屋上から見る朝日は格別だった。
冬は空気が乾燥しており、空気中に含まれる水分が少ない。そのためはっきりと太陽や星々を見ることが出来るのだ。
赤々と燃えるような太陽を独り占めできるだけで、早起きの苦労など大したものではないなと感じたものだった。とにかく素晴らしかった。



中学に上がっても屋上は開放されていたけど、数ヶ月すると鍵が締められるようになってしまった。きっと、安全面とか管理の面倒さがあったのだろう。僕は少し残念がった。
それから僕と屋上の仲はかなり疎遠になってしまったのだけれど、最近近所にいい感じの屋上を発見した。



家から2分くらいのところにあるアパートの屋上だ。24時間開放されていて、住民でない僕もこっそり忍び込んで屋上を満喫している。


ちょうど坂のてっぺんにあるので、遠くのビル群がよく見える。本を読もうとしたけど暗くて読めなかったので、読書はできない。


けれど、屋上に上がってタバコをふかしたり缶のお酒を飲んでいるだけで日頃の苦労やストレスが吹き飛んでしまう。生活の質がかなり上がった。


しかしまあ、見つけたのが大学生活も残り少ない時っていうのが残念ポイントだ。
東京に引っ越すときは、屋上を普段使いできることを条件の1つに入れようかな。



あ、そうだ、屋上好きの方はぜひ「包帯クラブ」という映画を見てほしい。キーとなる場面で屋上が出てきて、すごくいい感じなので。全国の屋上愛好家の皆さんにおすすめです。

10月(金がないのでメルカリ出品)

唐突にこんなこと言うのもなんなんだけど、お金がない。

 

思い当たる節はいくつもある。

就活で東京に行くのに交通費がかさんだ。自炊をサボってすき家で3種のチーズ牛丼を食べていた。夏休みに2回海外旅行に行った。家計簿をつけてなかった。お金を使う計画を立ててなかった。バッグをいくつも買った。

 

そして10月。学費か家賃、どちらかしか払えないという状況が生まれた。

学費を払わなければ大学を卒業できない。

家賃を払わなければ生活できない。

こんなジレンマ初めてだ。

マズロー欲求五段階説に従えば、学費は払わない方がいい。

でも卒業できなければ内定を取り消されてしまい、来年から働けなくなる。

それもまずい。

 

解決策として親から金を借りた。人生で初めてだ。

今まで親に金の無心をするという経験をしたことがなかった。

これは割に大きな決断だった。

自慢じゃないが僕は今まで真面目で親孝行な息子だったと思う。

高校は進学校で、テストは大抵10番以内だった。

部活にもきちんと取り組み、副キャプテンも勤めた。

親の信頼を裏切りたくないと思う一方で、そんな自分のイメージを変えていきたいという思いもあった。いつまでもマジメ一辺倒の人間ではない。

 

そうはいっても父親はそれなりに稼いでいるし、消費者金融の前に自分から借りなさいと母親からしつけられてきた。なので気楽に貸してくれると思っていた。

 しかし、僕は母を少し不安にさせてしまったみたいだった。

いままでの仕送りの余剰分はないのかを尋ねられたのち、どこか残念そうな口調で貸すことを承認してくれた。

 

母を失望させるのは思った以上に身に応えたので、早めに返済しようと思った。

これが21歳の秋。

もう少しで22歳になる。

 

・・・

 

お金が欲しいので、メルカリに私物を出品します。

まだ"Dulcamara"のよそいきバッグしか挙げてませんが、今後も服や本、CDは追加して行く予定です。ご覧頂ければ幸いです。

https://www.mercari.com/jp/u/168806979/

 

以上。

日常的食べ歩きの勧め

世の中は生きづらい。

仕事は憂鬱であることが多いし、人間関係だって結構めんどうだ。

 

それでも、僕らは楽しく生きたいと願う。日常を少し楽しくしていきたいと。

僕が今日おすすめしたいのが「日常的食べ歩き」だ。

 

日常的食べ歩きとは

僕はここで日常的食べ歩きという言葉を使った。

この言葉は、「中華街食べ歩き」や「温泉街食べ歩き」といった旅行などの非日常の下での食べ歩きとは異なるという意味合いで使っている。実際、食べ歩きは観光地でしかやらない人が多いと思う。もしくは、時間がないから仕方なくやっているとか。でも、日常のシーンでもほんの少しの気遣いでそれはできるし、やってみると意外と心地よいことに気づいてもらえるだろう。

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こんな感じの食べ歩きは「非日常的食べ歩き」

 

一応、定義しておくと、①暮らしている家や、働くオフィスの近くで ②食べ物を買い、散歩しながら食べ ③それに喜びを感じている状態 のことを「日常的食べ歩き」と呼ぶことにした。

 

買いに行こう

さて、実際に食べ歩いてみよう。

一番おすすめのコースは、「徒歩5分のコンビニから家まで」だ。時間帯は、夜小腹が空いたらでもいいし、昼下がり3時のおやつでもいい。ちょっとお腹に余裕あるなって思ったらリフレッシュがてら、靴を引っ掛けて外に出よう。

服装のポイントは、とにかくラフなことだ。大きめのTシャツに適当なズボンを履き、寝癖が気になればキャップを被っていこう。足元はスニーカーかサンダルがグッド。下駄でも◎。バッグは持たないのがベスト。持つなら、両手の空くショルダーバッグとかサコッシュが良いね。女の子ならワンピースを着よう。理由は僕が好きだからです。

 

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撮影日は夜です

 

そうこうしているうちに、近所のセブンイレブンにつきました。ここで自分に問うてほしい。「甘い気分?それともしょっぱい気分?」

 

もし甘い気分ならアイス売り場へ。しょっぱい気分ならレジ横ホットフード売り場に行こう。

 

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アイス売り場。最近好きなのは「いちご練乳氷」。

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ホットフード。一番好きなのはローソンの鶏天。

 

食べ歩き用の食べ物選びの鉄則は「そのまま口に入れやすいこと」だ。

唐揚げ棒やフランク系、棒アイスが最適で、逆にカップのアイスや唐揚げなんかは両手を使わなければいけないので悪手である。

あげどり系は手が汚れるかもしれないし、アメリカンドッグはケチャップをつけるのが手間なので食べるときは注意してほしい。

今回は記事のために「あげどり」と「棒付きのチョコミントアイス」を購入した。

すぐ食べるんだからレジ袋は断ってもいいね。(今回は1枚だけもらっちゃいましたが)

 

食べ歩こう

買ったら早速食べ歩こう。

セブンのホットフードは耐油性のある紙の袋に入れられる。棒系の商品は、セロハンテープを剥がして中から取り出そう。あげどり系は袋に点線が入っているのでそこで破いて食べるのが食べやすい。

 

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ファミチキよりあげどり派です。

 

あげどりは味がシンプルだし食感がちゃんとあって美味しいので時々食べる。

それを歩きながら食べると、普段よりも、なんとも言えない充足感を感じるようになるのだ。開放感もあるし、自由を満喫しているようだ。普段よりもゆっくり歩いているから、気づいてなかった意外な発見も多い。この日は、近所のケーキ屋にマドレーヌの飾りがぶら下げられているのに気がついた。

 

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前々からおかしなセンスの飾り付けだなあと思っていた。けど、それにしてもこれはひどいんじゃあないかと思う。一昔前の怪獣映画に出てくるハリボテみたいな感覚だ。

 

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アイスはチョコミント味。本当はぐるぐる巻いてあるソフトクリームが食べたかった。でも残念ながら売り切れていた。不本意ながら選んだチョコミント味は少し涼しい風が吹く夜にぴったりだったので正解だった。

ちょうど普段通らない道があったから入ってみた。家から徒歩5分くらいのコンビニまで行くと、こういう道が必ずある。ぶらっと入ってみてほしい。おもしろいものを見つけられるかもしれないから。音楽を聴きながらでもいい。道で何か見つけたら写真を撮ってみよう。そしてそれを恋人や友人に教えてあげよう。疲れてたら、座りやすいところに座って食べてもいい。外で食べれば、それだけでいい気分だ。

 

 

みんなもやろう日常的食べ歩き

とりあえず明日から試してみてほしい。

 注意点としては、人がたくさんいるところではしないほうがいいってことだ。渋谷とか新宿の人が多いところではやめよう。人の少ない高架下とか住宅街の方がやりやすい。あと、食べ歩きをすると食べた気にならない、ってケースもあるのでカロリーには気をつけてほしい。

やってみたらわかると思うが、食べ歩きをしていると普段考えないような考えが流れてくる。空想がはかどってすごくリラックスする。ゆっくりと時間が流れるから、ちょっと公園でブランコでも乗ってみようとか、銭湯に行ってみようとか、次のナイスアクションに繋がりやすい。とにかくいい気分になれる日常的食べ歩き。

 

みんなもやろうぜ、食べ歩き。

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昔は嫌いでしたミントチョコ

凹みやすく生きにくい人への提案

情けない話だけど、僕はとても凹みやすい。人との間で起こる諸々のトラブルに対して無抵抗に打ちのめされちゃうのだ。それは例えば、自分の知らないとこで言われる文句・ディスだったり、上司からの怒られることだったり、あるいは第三者からの優しさのない否定だったりする。


僕が凹みやすい原因はなんとなくだけど分かっている。それは人との衝突を避けようと思って生きてきたからだ。僕は中学生の時に、友達と喧嘩しよう、もしくさ喧嘩を避けるために媚びへつらおうなんて考えからはリタイアしてしまった。その手のストレスに弱いから、人と対立するくらいなら、つるむ友達は選んで平和的に、地味に仲良くしていこうと思ったのだ。


しかし、それがアダとなって、僕は人の悪意や心のぶつかりに対して本当に弱くなってしまった(と自分では思っている)。だから今日も人づてに自分の文句を聞いてしまって、今も結構ダメージを受けている。だから今日はこんな記事なのだ。「こんなささいなことブログなんかに書いちゃって女々しいやつめ」なーんてまた言われているのかもしれないな、なんて思うところが女々しいのだろうねきっと。


僕は基本的に楽観主義者だから、こういう性格になってしまったことはしょうがないし、感受性が強いと捉えて、これは強みなんだと思うようにしている。気にしないのが1番だ。
ただ、一つ僕が主張したいのは、第三者への文句なんてストレス発散にしかならないし、その割にデメリットが多すぎるということ。文句は長すぎると、聞いてる側も楽しくない(飲みの席での文句の話は長くなりがちだけど)。さらに誰にもプラスにならない。マイナスが少し減るだけだ。そしてその文句を誰が聞いてるかも分からないってこともデメリットだろうな。壁に耳あり障子に目あり。すぐ後ろに上司や恋人がいるなんてこともあり得なくない。


そこで僕が提案したいのは、文句は本人に言おうってことだ。例えば、「トイレを立ってするのが嫌だ」とか「その前髪どうにかした方がいい」ってはっきり言って欲しい。そしたら、僕はそれを肥やしにまだまだ自分を変えれると思うし、変えようと努力することは必ずできる。この方がさっぱりしててシンプルで気持ちいいと思う。
ただ、そこには個人の間の信頼関係の問題が出てくるから難しいねって人が多いんだろうな。つまり、そんなに仲良くない人に直接文句なんて言えないよってことだ。仕方ないと割り切るしかないのか。これは人生の命題になりそうなので、どうしたらいいか提案できなくて申し訳ない。


なにはともあれ、現実的に僕(僕ら)が凹むのはしょうがない。ただ、きちんと得になる凹み方をしたいから、目に見えないものと耳で聞こえないもの以外は信じないように心がけるべきだ。一次情報のみを信じる。あと、本当に信頼したいものだけを信じる。それで、この辛い世の中を生き抜くしかない。うーん、まだうまく言えない。だだ。優しい文句を言えるひとになろう。それが今夜言いたかったことだ。

断捨離最高最低最高

最近、部屋を綺麗にしたくてひたすら要らないものを捨てている。


まずはじめに、部屋の段ボールに無造作に入れられていた雑貨や小物を燃えるゴミの袋に入れた。例えば、菜箸のスペアや使ってない水筒、お弁当箱なんかだったり、あるいは福袋に入ってたダサいコップや妙におしゃれな雑貨だったり。なんかに使えるかも、とか思ってると一向に片付かないので、心を鬼にしてただ入れる。これが第一弾の断捨離。


次に、紙類に手をつけた。僕の住んでる区は、紙類の回収日が毎月第1月曜日だ。ちょうど五月一日がそれにあたる。だから、家に溜め込まれていた、入学時の資料とか送りつけられてきた就活の案内などをサイズ毎に重ねて縛った。ついでに、捨てるのが面倒だった段ボールも、この機会に一掃した。綺麗に重ねられた紙類をぴっちりとまとめるビニール紐。美しい、と思った。


最後に、要らない服と本に手をつけた。要らない服は、値がつきそうなものだけ、ジャンブルストアっていうチェーンの古着屋に買い取ってもらった。A.P.C.,black&blue, name.など、それなりのが入ってたから、6点で1万円くらいになって結構ハッピーだった。その金でまた服を買って帰った。本は、いぬやしきっていうコミックをあつめなくていいやってなったからブックオフに持ってった。5冊、360円。代わりに悪の華をまとめ買いしてきた。服と本は減るどころかむしろ増えてると言ってもいい。失敗した。


断捨離の最高なところは、部屋から物が減っていく点にある。明らかに物が減っていくので、贅肉がするする落ちてくみたいな気持ち良さがある。身体が軽くなって身動きがしやすい。どんどん気楽になる。そんな感覚がある。お金を使ってストレスを発散するのにも似てるかもしれない。


一方、断捨離の嫌なところは、新しくものを買うときに、どうせ使わなくなって捨てるんだろなと思ってしまうところだ。コミックを整理してるとき、それらを最近読んでないことに気づく。また、今後もほとんど読まないんだろうと思う。果たして僕は家に置いておく必要があるのかな。新しい本や雑貨を買うときも同じように思うのだ。


新しいものを買わなければ断捨離は出来ないから、ちょっとひねくれてるけど、断捨離をするために新しいものも買って、ついでに経済も回したらいいんじゃないかって思うのだ

ぼくとノミとジョン

覚えている限りで、僕がノミを初めて見たのは小学生の時だったと思う。

当時ちょうど父方の祖父母が僕の住んでいた家で一緒に住むようになった時だった。

それで祖父母が田舎で飼っていた犬を連れてきたのだ。

名前は「ジョン」と言って柴犬に似た雑種のオスだった。もともと祖父母の家に遊びに行くたびに可愛がっていたのもあって、僕と妹はすぐにジョンに慣れた。

母は姑と暮らすようになったわけだけれど、ジョンのおかげでどこかリラックスしているように見えた。

 

あれ、何の話だっけ。

 

思い出した。

そう、僕がノミを見たきっかけはもちろんジョンだ。外で暮らすジョンにはノミやダニがついてしまう。しかし僕は当時それが何なのか分からなかった。

だから、庭にいた祖母に聞いたのだ。

 

「おばあちゃん、これ何?ジョンについてるの」

「あら!いけないわねえ。虫がついちゃって!今取ってあげるから!」

 

そこでおもむろにジョンに近づいた祖母はノミとダニを素手でパッととると、地面に置き、サンダルの底で踏みつけたのだ。祖母が踏みつけた足をどけると、そこにはジョンの血をたっぷり吸ったのか、血が飛沫のように散っていた。そして潰れた虫。

僕が顔を引きつらせていると、祖母は

 

「これで大丈夫よお!アハハハハハハハ!」

 

と去っていった。僕は生まれて初めて犬に同情した。

 

それが僕とノミの鮮烈な出会いであるが、ジョンはこの後21歳まで生き、亡くなった。最後にはろくに動くこともなくなり、ドッグ・フードもほとんど残してしまっていて高校生になっていた僕は、やり場のない寂しさを感じていた。

彼は亡くなったけれど、僕の中に彼の舌のざらつきと獣独特の匂い、そしてノミのトラウマを残してくれた。

 

 

さらに月日が経ち、大学生になった僕はついに彼と同い年になった。

そういうわけで、今この文章を書くに至った。