贈り物としての本

 

いまは午前2時47分。

借りてる8畳のアパートにある自分の机に向かってこれを書いている。

 

久々に文章でも書こうかなと思ったのは、星野源が著したエッセイ「いのちの車窓から」を読んで自分もこういうの書きたいと思ったからではない。彼の文筆家としての才能への憧れからというよりは、この本を読むに至った文脈をきちんと保管し閲覧できる状態にしておきたかったからだ。

 

この本は人から誕生日プレゼントとしてもらったものだ。

 

贈り主はいつも和やかな笑顔が素敵な飯尾くんという友人。僕が本を読み、さらに星野源を好きだということも知っていて、贈ってくれたのだ。何冊かは読んでたけど、これは持ってなかったので、とても嬉しい。

 

そして読んでみようと思い、ページを開くとやはり面白いことばかり書いてあった。特に今回は共感性の高い話がいくつもあったのが収穫だった。特に「HOTEL」という話の中で「寝たふりをするのが好き」「透明人間になりたい」というエピソードが挟まれる。これは本当に僕も小さい頃(いまでも時々)思っていたことで、幼い頃の愛しい思い出がいくつか連想されて心地よかった。

 

 

 

そして僕がここで主張したいのは贈り物としての本の素晴らしさだ。

今回のエピソードで2つの優れた点に気が付いた。

 

1つ目は、贈り主の親密さが伝わることだ。

僕が今回贈ってもらった際に僕が「本好き」「星野源が好き」「その本を持っていない」という3つの個人的な事情をわかってくれていた。これは地味に嬉しい。

友人がいかに日常的に自分のことを気にしてくれていたかが分かるからだ。

しかも本はめちゃくちゃに商品の種類が多いアイテムでもある。例えばマフラーを買いに行くとして、1つの店にあるマフラーの種類なんてせいぜい10種類だろう。パルコ全館を合わせても200種類程度だ。一方で本は1つの店に数万種類の商品が並ぶ。その中から自分のためにただ1つを選んでくれていたとしたらなんてロマンチックだろう。友人は男だけれど。

とにかく「自分を知っててくれて」「自分のためだけに1冊を選んでくれる」と考えると本はとても贅沢な贈り物だと思えてくる。

 

 

2つ目は、本は読む人個人の内側を刺激するということだ。

特殊な本を除いて、本は人の共感を求める。でなければ読み進めることが困難だからだ。中でもそれが小説やエッセイの場合、かなり自分のパーソナルなところまで踏み込んでくると思う。今回の場合だと本文中の、寝たふりをしている時の居心地のよさの描写から僕個人の過去が引き出された。小さい頃、祖母の家に泊まった際に子供のみ早く寝かされ襖越しに大人たちの会話が聞こえてきてたことだ。その時の妙な安心感を久々に思い出すことができた。僕らはどんな話であっても少なからず共感してしまう。同意のもとでなければ文章は先へ進まないからだ。

逆に言えばおおよそどんな本を贈っても、読み手は文中の出来事と過去を絡めて解釈する。その人の個人的な、深いところに触れるものがある。2、300グラム程度の紙の束が、涙を流させることもあるのだ。

読んだ人の外側ではなく内側を彩り、いい体験をさせてくれるのが贈り物としての本の良さなのだと思う。

 

 

僕が言いたいことはこうだ。

恐れることなく人に本を贈ってみよう。

 

僕は今まで何回か本をもらった経験があった。親とか友人、恋人にもらったのだ。

しかしそのどれもが僕にとっていい経験を作ってくれたし、嫌な思いをしたことはない。だから、仲の良さがあればセンスのいい贈り物として快く受け取ってくれると思うのだ。

最後に一つだけ。あげた本について読むことを強要しないでほしい。自主的に読むというゆとりがあってこそのプレゼントだからだ。読んでくれることをそっと祈って、あとは本人に任せるのがいいと思う。

 

 

それでは、身近な人の誕生日を思い浮かべたら、本屋へ行ってみよう。