僕の見た3月11日

3月12日になってしまったけれど、あえて書こうと思う。

僕が中学3年生の3月11日、6時間目の英会話の授業中だったと思う。半地下になっている教室、玄関の目の前の教室でALTの授業を受けていた。

始めは、みんなただの地震だと思っていた。震度3くらいで自分に関係のないようなもの。だから授業しながら「あ、地震だ」と感じるくらいのよくあるあれだと思っていた。

でも、地震がなかなかおさまらなくて段々これやばいんじゃないかって気がしてきた。そして、強さも段々大きくなってくる。うわー、長いなーと思っていたら、ドカン、と。電気もパッと落ちてやばいやばいとみんな机の下にもぐった。そうこうしてるうちに揺れはどんどんどんどんでかくなって教室全体がゆすられてるみたいだった。揺られてるなか、クラスメイトの高橋くんが必死にブラウン管のテレビを抑えていた。コメディアンだった彼がテレビを抑えている様は印象的だった。
揺らされて響く騒音、棚の揺れる音とか建物自体が揺れによって出す音の中で、外に逃げることを考えた。混乱するALTと一緒にみんな走って外に出た。好きな子の手を引きながら走って出て行く同級生を、「こいつやりやがって」と思って見てたのを覚えている。

外に出て、揺れが収まると一番上の階にいる他クラスの同級生たちが窓からこっちを見てた。僕らはグラウンドに避難してる唯一のクラスだったのだ。「いやー、デカかったなぁ」といつもの調子で話していた。そしたら、先生たちがなんだかこれはおおごとだと気付き始めて、みんな外に避難してきた。非日常的な感じに少しワクワクしてしまっている自分が、今となってはとても浅ましく聞こえる。


結局その日僕が学校から帰れたのは20時を回ってからだった。学校の方針で、保護者が迎えにくるまで帰らせないということだったのだ。だからその日学校に泊まることになった生徒もたくさんいた。グラウンド待機の後はひたすら教室で待った。3月の夜の茨城は寒くて、みんなガタガタ震えながらこれからどうなるのか、漠然とした不安にかられていた。その漠然さを追い払うために、無理やり、気丈に怖い話とかをしていた。そして僕はなぜか好きな理科の資料集を読みながら話を聞いていた。その日は特別に携帯電話を使うことを許されたけれど、回線はめちゃめちゃに混み合っていて家族と連絡を取ることはできなかった。いざという時に一番頼りになるのは公衆電話だってこと、覚えておいてほしい。そして20時くらいに父が迎えにきた。

父親とは歩いて帰った。地面はでこぼこしてたし、信号灯も消えていたから、自転車で帰るのは危険だって言われたから。途中まで送ってくれて、彼は会社へ帰った。その日はやたら月が綺麗だったことを覚えている。
「あ、そっか。街中の電気が消えるとこんなに月が綺麗に見えるんだ」


家に帰っても、もちろん電気とガスはないので家中のロウソクと懐中電灯を寄せ集めて大切に使った。母が昼間にパン屋で買ってきてくれたパンをかじった。電子レンジで温めたかったなぁと思いながら固いパンをかじった。お風呂には入れなかったので、寒さに身を寄せあうように眠った。


ここまでが僕の見た3月11日だ。後から東北が大変なことになっていると聞いたけれど、僕の周りも大変だったと思う。テレビではACのCMばかり流れていた。コンビニには長い列ができていた。僕も自転車を漕いで食べ物を買いに行ったけど、意外と家には食べ物があって1人の中学3年生の危機感は空回りしていた。予定されてた卒業式はなくなったし、学校も部活も休みになった。やることがなくなっちゃったから、韓国人の友達と公園でずっとバスケしてた。一方で、隣の県では放射能が漏れ続けていた。その韓国人の友達は韓国に帰らなきゃいけなくなった。

地震地震で、事実として起こってしまうことは避けられない。これはこの国に生きる限り絶対なことだ。地震はこれからも何度も起こる。僕が言いたいのは、地震は起こってしまうことだから、きちんと備えるべきだってこと。人が死んでしまうこと以上に最悪なことってない。だからきちんと備えよう。起こったらどうするか頭で考えよう。なるべくリアルにシュミレーションしよう。
あと、僕は人が死ぬこと、それさえ避けられれば不便になっても我慢できると思う。だから電気が足りなくても文句は言わない。臆病者だから原発反対って声を大にして言えないけど、もっと根本のことを考えても良いんじゃないかな。何が一番大切なんだろう?

みんなで考えよう。