日常的食べ歩きの勧め

世の中は生きづらい。

仕事は憂鬱であることが多いし、人間関係だって結構めんどうだ。

 

それでも、僕らは楽しく生きたいと願う。日常を少し楽しくしていきたいと。

僕が今日おすすめしたいのが「日常的食べ歩き」だ。

 

日常的食べ歩きとは

僕はここで日常的食べ歩きという言葉を使った。

この言葉は、「中華街食べ歩き」や「温泉街食べ歩き」といった旅行などの非日常の下での食べ歩きとは異なるという意味合いで使っている。実際、食べ歩きは観光地でしかやらない人が多いと思う。もしくは、時間がないから仕方なくやっているとか。でも、日常のシーンでもほんの少しの気遣いでそれはできるし、やってみると意外と心地よいことに気づいてもらえるだろう。

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こんな感じの食べ歩きは「非日常的食べ歩き」

 

一応、定義しておくと、①暮らしている家や、働くオフィスの近くで ②食べ物を買い、散歩しながら食べ ③それに喜びを感じている状態 のことを「日常的食べ歩き」と呼ぶことにした。

 

買いに行こう

さて、実際に食べ歩いてみよう。

一番おすすめのコースは、「徒歩5分のコンビニから家まで」だ。時間帯は、夜小腹が空いたらでもいいし、昼下がり3時のおやつでもいい。ちょっとお腹に余裕あるなって思ったらリフレッシュがてら、靴を引っ掛けて外に出よう。

服装のポイントは、とにかくラフなことだ。大きめのTシャツに適当なズボンを履き、寝癖が気になればキャップを被っていこう。足元はスニーカーかサンダルがグッド。下駄でも◎。バッグは持たないのがベスト。持つなら、両手の空くショルダーバッグとかサコッシュが良いね。女の子ならワンピースを着よう。理由は僕が好きだからです。

 

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撮影日は夜です

 

そうこうしているうちに、近所のセブンイレブンにつきました。ここで自分に問うてほしい。「甘い気分?それともしょっぱい気分?」

 

もし甘い気分ならアイス売り場へ。しょっぱい気分ならレジ横ホットフード売り場に行こう。

 

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アイス売り場。最近好きなのは「いちご練乳氷」。

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ホットフード。一番好きなのはローソンの鶏天。

 

食べ歩き用の食べ物選びの鉄則は「そのまま口に入れやすいこと」だ。

唐揚げ棒やフランク系、棒アイスが最適で、逆にカップのアイスや唐揚げなんかは両手を使わなければいけないので悪手である。

あげどり系は手が汚れるかもしれないし、アメリカンドッグはケチャップをつけるのが手間なので食べるときは注意してほしい。

今回は記事のために「あげどり」と「棒付きのチョコミントアイス」を購入した。

すぐ食べるんだからレジ袋は断ってもいいね。(今回は1枚だけもらっちゃいましたが)

 

食べ歩こう

買ったら早速食べ歩こう。

セブンのホットフードは耐油性のある紙の袋に入れられる。棒系の商品は、セロハンテープを剥がして中から取り出そう。あげどり系は袋に点線が入っているのでそこで破いて食べるのが食べやすい。

 

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ファミチキよりあげどり派です。

 

あげどりは味がシンプルだし食感がちゃんとあって美味しいので時々食べる。

それを歩きながら食べると、普段よりも、なんとも言えない充足感を感じるようになるのだ。開放感もあるし、自由を満喫しているようだ。普段よりもゆっくり歩いているから、気づいてなかった意外な発見も多い。この日は、近所のケーキ屋にマドレーヌの飾りがぶら下げられているのに気がついた。

 

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前々からおかしなセンスの飾り付けだなあと思っていた。けど、それにしてもこれはひどいんじゃあないかと思う。一昔前の怪獣映画に出てくるハリボテみたいな感覚だ。

 

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アイスはチョコミント味。本当はぐるぐる巻いてあるソフトクリームが食べたかった。でも残念ながら売り切れていた。不本意ながら選んだチョコミント味は少し涼しい風が吹く夜にぴったりだったので正解だった。

ちょうど普段通らない道があったから入ってみた。家から徒歩5分くらいのコンビニまで行くと、こういう道が必ずある。ぶらっと入ってみてほしい。おもしろいものを見つけられるかもしれないから。音楽を聴きながらでもいい。道で何か見つけたら写真を撮ってみよう。そしてそれを恋人や友人に教えてあげよう。疲れてたら、座りやすいところに座って食べてもいい。外で食べれば、それだけでいい気分だ。

 

 

みんなもやろう日常的食べ歩き

とりあえず明日から試してみてほしい。

 注意点としては、人がたくさんいるところではしないほうがいいってことだ。渋谷とか新宿の人が多いところではやめよう。人の少ない高架下とか住宅街の方がやりやすい。あと、食べ歩きをすると食べた気にならない、ってケースもあるのでカロリーには気をつけてほしい。

やってみたらわかると思うが、食べ歩きをしていると普段考えないような考えが流れてくる。空想がはかどってすごくリラックスする。ゆっくりと時間が流れるから、ちょっと公園でブランコでも乗ってみようとか、銭湯に行ってみようとか、次のナイスアクションに繋がりやすい。とにかくいい気分になれる日常的食べ歩き。

 

みんなもやろうぜ、食べ歩き。

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昔は嫌いでしたミントチョコ

凹みやすく生きにくい人への提案

情けない話だけど、僕はとても凹みやすい。人との間で起こる諸々のトラブルに対して無抵抗に打ちのめされちゃうのだ。それは例えば、自分の知らないとこで言われる文句・ディスだったり、上司からの怒られることだったり、あるいは第三者からの優しさのない否定だったりする。


僕が凹みやすい原因はなんとなくだけど分かっている。それは人との衝突を避けようと思って生きてきたからだ。僕は中学生の時に、友達と喧嘩しよう、もしくさ喧嘩を避けるために媚びへつらおうなんて考えからはリタイアしてしまった。その手のストレスに弱いから、人と対立するくらいなら、つるむ友達は選んで平和的に、地味に仲良くしていこうと思ったのだ。


しかし、それがアダとなって、僕は人の悪意や心のぶつかりに対して本当に弱くなってしまった(と自分では思っている)。だから今日も人づてに自分の文句を聞いてしまって、今も結構ダメージを受けている。だから今日はこんな記事なのだ。「こんなささいなことブログなんかに書いちゃって女々しいやつめ」なーんてまた言われているのかもしれないな、なんて思うところが女々しいのだろうねきっと。


僕は基本的に楽観主義者だから、こういう性格になってしまったことはしょうがないし、感受性が強いと捉えて、これは強みなんだと思うようにしている。気にしないのが1番だ。
ただ、一つ僕が主張したいのは、第三者への文句なんてストレス発散にしかならないし、その割にデメリットが多すぎるということ。文句は長すぎると、聞いてる側も楽しくない(飲みの席での文句の話は長くなりがちだけど)。さらに誰にもプラスにならない。マイナスが少し減るだけだ。そしてその文句を誰が聞いてるかも分からないってこともデメリットだろうな。壁に耳あり障子に目あり。すぐ後ろに上司や恋人がいるなんてこともあり得なくない。


そこで僕が提案したいのは、文句は本人に言おうってことだ。例えば、「トイレを立ってするのが嫌だ」とか「その前髪どうにかした方がいい」ってはっきり言って欲しい。そしたら、僕はそれを肥やしにまだまだ自分を変えれると思うし、変えようと努力することは必ずできる。この方がさっぱりしててシンプルで気持ちいいと思う。
ただ、そこには個人の間の信頼関係の問題が出てくるから難しいねって人が多いんだろうな。つまり、そんなに仲良くない人に直接文句なんて言えないよってことだ。仕方ないと割り切るしかないのか。これは人生の命題になりそうなので、どうしたらいいか提案できなくて申し訳ない。


なにはともあれ、現実的に僕(僕ら)が凹むのはしょうがない。ただ、きちんと得になる凹み方をしたいから、目に見えないものと耳で聞こえないもの以外は信じないように心がけるべきだ。一次情報のみを信じる。あと、本当に信頼したいものだけを信じる。それで、この辛い世の中を生き抜くしかない。うーん、まだうまく言えない。だだ。優しい文句を言えるひとになろう。それが今夜言いたかったことだ。

断捨離最高最低最高

最近、部屋を綺麗にしたくてひたすら要らないものを捨てている。


まずはじめに、部屋の段ボールに無造作に入れられていた雑貨や小物を燃えるゴミの袋に入れた。例えば、菜箸のスペアや使ってない水筒、お弁当箱なんかだったり、あるいは福袋に入ってたダサいコップや妙におしゃれな雑貨だったり。なんかに使えるかも、とか思ってると一向に片付かないので、心を鬼にしてただ入れる。これが第一弾の断捨離。


次に、紙類に手をつけた。僕の住んでる区は、紙類の回収日が毎月第1月曜日だ。ちょうど五月一日がそれにあたる。だから、家に溜め込まれていた、入学時の資料とか送りつけられてきた就活の案内などをサイズ毎に重ねて縛った。ついでに、捨てるのが面倒だった段ボールも、この機会に一掃した。綺麗に重ねられた紙類をぴっちりとまとめるビニール紐。美しい、と思った。


最後に、要らない服と本に手をつけた。要らない服は、値がつきそうなものだけ、ジャンブルストアっていうチェーンの古着屋に買い取ってもらった。A.P.C.,black&blue, name.など、それなりのが入ってたから、6点で1万円くらいになって結構ハッピーだった。その金でまた服を買って帰った。本は、いぬやしきっていうコミックをあつめなくていいやってなったからブックオフに持ってった。5冊、360円。代わりに悪の華をまとめ買いしてきた。服と本は減るどころかむしろ増えてると言ってもいい。失敗した。


断捨離の最高なところは、部屋から物が減っていく点にある。明らかに物が減っていくので、贅肉がするする落ちてくみたいな気持ち良さがある。身体が軽くなって身動きがしやすい。どんどん気楽になる。そんな感覚がある。お金を使ってストレスを発散するのにも似てるかもしれない。


一方、断捨離の嫌なところは、新しくものを買うときに、どうせ使わなくなって捨てるんだろなと思ってしまうところだ。コミックを整理してるとき、それらを最近読んでないことに気づく。また、今後もほとんど読まないんだろうと思う。果たして僕は家に置いておく必要があるのかな。新しい本や雑貨を買うときも同じように思うのだ。


新しいものを買わなければ断捨離は出来ないから、ちょっとひねくれてるけど、断捨離をするために新しいものも買って、ついでに経済も回したらいいんじゃないかって思うのだ

ぼくとノミとジョン

覚えている限りで、僕がノミを初めて見たのは小学生の時だったと思う。

当時ちょうど父方の祖父母が僕の住んでいた家で一緒に住むようになった時だった。

それで祖父母が田舎で飼っていた犬を連れてきたのだ。

名前は「ジョン」と言って柴犬に似た雑種のオスだった。もともと祖父母の家に遊びに行くたびに可愛がっていたのもあって、僕と妹はすぐにジョンに慣れた。

母は姑と暮らすようになったわけだけれど、ジョンのおかげでどこかリラックスしているように見えた。

 

あれ、何の話だっけ。

 

思い出した。

そう、僕がノミを見たきっかけはもちろんジョンだ。外で暮らすジョンにはノミやダニがついてしまう。しかし僕は当時それが何なのか分からなかった。

だから、庭にいた祖母に聞いたのだ。

 

「おばあちゃん、これ何?ジョンについてるの」

「あら!いけないわねえ。虫がついちゃって!今取ってあげるから!」

 

そこでおもむろにジョンに近づいた祖母はノミとダニを素手でパッととると、地面に置き、サンダルの底で踏みつけたのだ。祖母が踏みつけた足をどけると、そこにはジョンの血をたっぷり吸ったのか、血が飛沫のように散っていた。そして潰れた虫。

僕が顔を引きつらせていると、祖母は

 

「これで大丈夫よお!アハハハハハハハ!」

 

と去っていった。僕は生まれて初めて犬に同情した。

 

それが僕とノミの鮮烈な出会いであるが、ジョンはこの後21歳まで生き、亡くなった。最後にはろくに動くこともなくなり、ドッグ・フードもほとんど残してしまっていて高校生になっていた僕は、やり場のない寂しさを感じていた。

彼は亡くなったけれど、僕の中に彼の舌のざらつきと獣独特の匂い、そしてノミのトラウマを残してくれた。

 

 

さらに月日が経ち、大学生になった僕はついに彼と同い年になった。

そういうわけで、今この文章を書くに至った。

 

 

僕の見た3月11日

3月12日になってしまったけれど、あえて書こうと思う。

僕が中学3年生の3月11日、6時間目の英会話の授業中だったと思う。半地下になっている教室、玄関の目の前の教室でALTの授業を受けていた。

始めは、みんなただの地震だと思っていた。震度3くらいで自分に関係のないようなもの。だから授業しながら「あ、地震だ」と感じるくらいのよくあるあれだと思っていた。

でも、地震がなかなかおさまらなくて段々これやばいんじゃないかって気がしてきた。そして、強さも段々大きくなってくる。うわー、長いなーと思っていたら、ドカン、と。電気もパッと落ちてやばいやばいとみんな机の下にもぐった。そうこうしてるうちに揺れはどんどんどんどんでかくなって教室全体がゆすられてるみたいだった。揺られてるなか、クラスメイトの高橋くんが必死にブラウン管のテレビを抑えていた。コメディアンだった彼がテレビを抑えている様は印象的だった。
揺らされて響く騒音、棚の揺れる音とか建物自体が揺れによって出す音の中で、外に逃げることを考えた。混乱するALTと一緒にみんな走って外に出た。好きな子の手を引きながら走って出て行く同級生を、「こいつやりやがって」と思って見てたのを覚えている。

外に出て、揺れが収まると一番上の階にいる他クラスの同級生たちが窓からこっちを見てた。僕らはグラウンドに避難してる唯一のクラスだったのだ。「いやー、デカかったなぁ」といつもの調子で話していた。そしたら、先生たちがなんだかこれはおおごとだと気付き始めて、みんな外に避難してきた。非日常的な感じに少しワクワクしてしまっている自分が、今となってはとても浅ましく聞こえる。


結局その日僕が学校から帰れたのは20時を回ってからだった。学校の方針で、保護者が迎えにくるまで帰らせないということだったのだ。だからその日学校に泊まることになった生徒もたくさんいた。グラウンド待機の後はひたすら教室で待った。3月の夜の茨城は寒くて、みんなガタガタ震えながらこれからどうなるのか、漠然とした不安にかられていた。その漠然さを追い払うために、無理やり、気丈に怖い話とかをしていた。そして僕はなぜか好きな理科の資料集を読みながら話を聞いていた。その日は特別に携帯電話を使うことを許されたけれど、回線はめちゃめちゃに混み合っていて家族と連絡を取ることはできなかった。いざという時に一番頼りになるのは公衆電話だってこと、覚えておいてほしい。そして20時くらいに父が迎えにきた。

父親とは歩いて帰った。地面はでこぼこしてたし、信号灯も消えていたから、自転車で帰るのは危険だって言われたから。途中まで送ってくれて、彼は会社へ帰った。その日はやたら月が綺麗だったことを覚えている。
「あ、そっか。街中の電気が消えるとこんなに月が綺麗に見えるんだ」


家に帰っても、もちろん電気とガスはないので家中のロウソクと懐中電灯を寄せ集めて大切に使った。母が昼間にパン屋で買ってきてくれたパンをかじった。電子レンジで温めたかったなぁと思いながら固いパンをかじった。お風呂には入れなかったので、寒さに身を寄せあうように眠った。


ここまでが僕の見た3月11日だ。後から東北が大変なことになっていると聞いたけれど、僕の周りも大変だったと思う。テレビではACのCMばかり流れていた。コンビニには長い列ができていた。僕も自転車を漕いで食べ物を買いに行ったけど、意外と家には食べ物があって1人の中学3年生の危機感は空回りしていた。予定されてた卒業式はなくなったし、学校も部活も休みになった。やることがなくなっちゃったから、韓国人の友達と公園でずっとバスケしてた。一方で、隣の県では放射能が漏れ続けていた。その韓国人の友達は韓国に帰らなきゃいけなくなった。

地震地震で、事実として起こってしまうことは避けられない。これはこの国に生きる限り絶対なことだ。地震はこれからも何度も起こる。僕が言いたいのは、地震は起こってしまうことだから、きちんと備えるべきだってこと。人が死んでしまうこと以上に最悪なことってない。だからきちんと備えよう。起こったらどうするか頭で考えよう。なるべくリアルにシュミレーションしよう。
あと、僕は人が死ぬこと、それさえ避けられれば不便になっても我慢できると思う。だから電気が足りなくても文句は言わない。臆病者だから原発反対って声を大にして言えないけど、もっと根本のことを考えても良いんじゃないかな。何が一番大切なんだろう?

みんなで考えよう。

チャーリーとチョコレート工場のリスと僕

映画「チャーリーとチョコレート工場」を見たことはある?僕は映画は見た記憶がないのだけれど、本なら読んだことがある。

原作は「チョコレート工場の秘密」という短めの小説だ。僕の母はクリスマス・プレゼントには決まって本を贈ってくれた。当時はロックマンエグゼ5のカセットの方が欲しかったけれど本をもらうことも満更ではなかった。この「チョコレート工場の秘密」、僕が確か小4の時のクリスマス・プレゼントだった。

その本で印象的なシーンは、工場の一角でリスのような動物がナッツの中身がきちんと詰まっているかどうかを確認する場面だ。中身の入ってないナッツはどうなるのかというと、もちろん廃棄処分されてしまう。このリスは、ナッツを机の角みたいなところにコンコンとぶつけてその時の音で中身が空か詰まっているかを判断する。そこで偶然にも子供が1人その部屋に入ってしまうのだけれど、その子もナッツと同様頭をコンコンとぶつけて中身を確認される。内側から響くような軽い音がして、彼女は残念ながら頭の中が空っぽであるとの認定をされた。もちろんそのあとはゴミ箱にポイ、だ。
その時僕は「頭の中が空っぽな人になんてなりたくはない」と強く思ったのを覚えている。

さて、あれから10年ほど経ったいま、僕は頭が空っぽでない大人になれているだろうか。僕の中で、「頭が空っぽな大人」を「何も考えてない大人」と定義しているけど、何も考えてない人なんていないんだよなぁと思う。それじゃ、何が空っぽたらしめるのか。


それは自分を客観的に見れているか否かなのではないかと思う。聡明なチャーリー少年は、自分の状況と立場を把握していた。そして他人も客観的に見ることができていた(主人公だから当然だけどね)。自分を客観的に見れるということは、自分が大衆の中のどの位置にいるのかを把握できているということだ。自分の位置を把握できるということは、自分がどういうことをしたら、次のステップにあがれて、どういうことをしたら別の場所に行けるのか分かるということだ。これは当たり前のようですごいことだ。

そういう意味で言えば僕の頭の中は空っぽだ。想像力と記憶が欠如しているから、自分がどう他人の目に映っているのか知らない。むしろ開き直って居場所なんてどこでもいいとさえ思っている。しかし、このままではあかん、と子供の時の僕が涙ながらに訴えている。頭の詰まった大人になるんだ、と。

でも、頭の中が詰まってしまったら面白くない大人になってしまう気がするのだ。僕は面白く生きたい。くだらなくも気の置けない、素敵なおっちゃんになりたい。だから、頭の中身の量を調整するねじをつけようと思う。朝起きたら、キリキリキリと、今日はこのくらい阿呆になろうとねじを巻く。時には人に巻いてもらってもいい。

今日は自分の感覚的な話をしすぎてしまってなんのこっちゃ分からんと思いますが、分かってください。要は、くだらない心を忘れないようにしようということです。

文章群

僕が苦手なものは三つある。一つ目は不機嫌な人。二つ目は、グリーンピース。そして三つ目が、予定の調整だ。


ある日歩いていたら、上からイワシがたくさん降って来たことがある。折りたたみ傘を持っていたから、傘を逆さにさした。結果として、その日の夕飯は焼いたイワシとイワシの唐揚げとイワシと玉ねぎのマリネだった。


人は死ぬと少し軽くなるという話を聞いたことがあるだろうか?その軽くなった分は魂の重さだ、なんて言われることもあるけれど、僕に言わせればそれは違う。体重を立って測ることができなくなったからだ。


僕が昔から好きじゃないものがあった。冷凍のピラフと、シュウマイ。その理由は、少し考えれば分かると思う。


ある雑誌にこんなことが書いてあった。
「こんな文章読んだってなんの素養にもならない。犬も食わない。ただ、読んでくれてる人の数は分かっていて、その数字は決して多くないけれど、僕の支えになっている。ありがとう」


それは、グリーンピースが入っているからだ。


四季の中で一番好きなのは秋だ。なぜかというと、僕の誕生日は秋だし、モンブランが好物で、そして夕方に少しさみしい匂いがするからだ。さらに言えば、比較的気楽な服装でいられるから。


テレビではくだらない番組が垂れ流されている。大勢の人がどうでもいい話題について話し合う番組。いい大人たちが繰り広げる中身のすっからかんの議論を、いい大人たちが楽しそうに観ている様を想像するとぞっとした。


予定の調整を間違えると、不機嫌な人が生まれる。僕は予定の調整は苦手だけど、好きだ。だからこそ真に気をつけるべきなんだと思う。詰め込みすぎていいのは試験の過去問の解答とお菓子の詰め放題だけ。


「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。」



以上。