チャーリーとチョコレート工場のリスと僕

映画「チャーリーとチョコレート工場」を見たことはある?僕は映画は見た記憶がないのだけれど、本なら読んだことがある。

原作は「チョコレート工場の秘密」という短めの小説だ。僕の母はクリスマス・プレゼントには決まって本を贈ってくれた。当時はロックマンエグゼ5のカセットの方が欲しかったけれど本をもらうことも満更ではなかった。この「チョコレート工場の秘密」、僕が確か小4の時のクリスマス・プレゼントだった。

その本で印象的なシーンは、工場の一角でリスのような動物がナッツの中身がきちんと詰まっているかどうかを確認する場面だ。中身の入ってないナッツはどうなるのかというと、もちろん廃棄処分されてしまう。このリスは、ナッツを机の角みたいなところにコンコンとぶつけてその時の音で中身が空か詰まっているかを判断する。そこで偶然にも子供が1人その部屋に入ってしまうのだけれど、その子もナッツと同様頭をコンコンとぶつけて中身を確認される。内側から響くような軽い音がして、彼女は残念ながら頭の中が空っぽであるとの認定をされた。もちろんそのあとはゴミ箱にポイ、だ。
その時僕は「頭の中が空っぽな人になんてなりたくはない」と強く思ったのを覚えている。

さて、あれから10年ほど経ったいま、僕は頭が空っぽでない大人になれているだろうか。僕の中で、「頭が空っぽな大人」を「何も考えてない大人」と定義しているけど、何も考えてない人なんていないんだよなぁと思う。それじゃ、何が空っぽたらしめるのか。


それは自分を客観的に見れているか否かなのではないかと思う。聡明なチャーリー少年は、自分の状況と立場を把握していた。そして他人も客観的に見ることができていた(主人公だから当然だけどね)。自分を客観的に見れるということは、自分が大衆の中のどの位置にいるのかを把握できているということだ。自分の位置を把握できるということは、自分がどういうことをしたら、次のステップにあがれて、どういうことをしたら別の場所に行けるのか分かるということだ。これは当たり前のようですごいことだ。

そういう意味で言えば僕の頭の中は空っぽだ。想像力と記憶が欠如しているから、自分がどう他人の目に映っているのか知らない。むしろ開き直って居場所なんてどこでもいいとさえ思っている。しかし、このままではあかん、と子供の時の僕が涙ながらに訴えている。頭の詰まった大人になるんだ、と。

でも、頭の中が詰まってしまったら面白くない大人になってしまう気がするのだ。僕は面白く生きたい。くだらなくも気の置けない、素敵なおっちゃんになりたい。だから、頭の中身の量を調整するねじをつけようと思う。朝起きたら、キリキリキリと、今日はこのくらい阿呆になろうとねじを巻く。時には人に巻いてもらってもいい。

今日は自分の感覚的な話をしすぎてしまってなんのこっちゃ分からんと思いますが、分かってください。要は、くだらない心を忘れないようにしようということです。

文章群

僕が苦手なものは三つある。一つ目は不機嫌な人。二つ目は、グリーンピース。そして三つ目が、予定の調整だ。


ある日歩いていたら、上からイワシがたくさん降って来たことがある。折りたたみ傘を持っていたから、傘を逆さにさした。結果として、その日の夕飯は焼いたイワシとイワシの唐揚げとイワシと玉ねぎのマリネだった。


人は死ぬと少し軽くなるという話を聞いたことがあるだろうか?その軽くなった分は魂の重さだ、なんて言われることもあるけれど、僕に言わせればそれは違う。体重を立って測ることができなくなったからだ。


僕が昔から好きじゃないものがあった。冷凍のピラフと、シュウマイ。その理由は、少し考えれば分かると思う。


ある雑誌にこんなことが書いてあった。
「こんな文章読んだってなんの素養にもならない。犬も食わない。ただ、読んでくれてる人の数は分かっていて、その数字は決して多くないけれど、僕の支えになっている。ありがとう」


それは、グリーンピースが入っているからだ。


四季の中で一番好きなのは秋だ。なぜかというと、僕の誕生日は秋だし、モンブランが好物で、そして夕方に少しさみしい匂いがするからだ。さらに言えば、比較的気楽な服装でいられるから。


テレビではくだらない番組が垂れ流されている。大勢の人がどうでもいい話題について話し合う番組。いい大人たちが繰り広げる中身のすっからかんの議論を、いい大人たちが楽しそうに観ている様を想像するとぞっとした。


予定の調整を間違えると、不機嫌な人が生まれる。僕は予定の調整は苦手だけど、好きだ。だからこそ真に気をつけるべきなんだと思う。詰め込みすぎていいのは試験の過去問の解答とお菓子の詰め放題だけ。


「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。」



以上。

ろくでもない一日の(短い)愉快な夜に

今日、目が覚めると、外が薄暗かった。
ああ、やってしまった。
時計に目をやると午後5時すぎだった。

午後5時って"ごごごじ"と"ご"が3回も続くなぁとどうでもよいことを考えながら、今日やりたかったことを思い出してため息をついた。
今日は1人で街に出て、記事のための取材を済ませて、撮りためた写真を現像に出して、ついでに美味しいパンでも買って帰ってこようと思っていたのに。もうそんなこともできる時間じゃない。

とりあえずシャワーを浴びて、外に出ることにした。乗り馴れたライムグリーンのビアンキのピストバイクにまたがる。そろそろ掃除してあげないとな、と思いつつ漕ぎ出した。目的地は隣の駅のツタヤ。このあいだ借りた映画の延滞料金を払いにきたのだ。やれやれ。夕方に起床して、延滞料金を払って終える一日は、なんて残念なんだろう。残念な一日のロールモデルとして小学校の道徳の教科書にでも載せてくれた方がかえって清々しい。

このままツタヤを後にするのは余りにも味気なかったので、「ドリフターズ」の一巻と「横道世之介」のDVDを手に取り、レジに並んだ。この横道世之介は借りるのは3回目だ。160分もあってダヴィンチコードについで長い映画だけれど、僕はとても気に入っていてかれこれ見るのは5回目だ。特に、主人公の世之介が暑い日に部屋で麺をすすりながら週刊誌を読んでいるシーンが好きだ。画面に張り付いて何回も巻き戻した。

さて、そんなことはどうでもよくって、店の名前が印刷された薄くて白いビニール袋をぶら下げて近所の中華料理屋に行った。ここの角煮飯が美味しい。炒飯はそこまで美味しくない。久しぶりに来たら値上げされていて、少し悲しくなったけれどやはり角煮飯を食べるしかない。僕はこの店の奴隷になりさがってしまったのかもしれないな。味はやはり美味しかった。左手でスプーンを、右手で先ほど買ったコミックをめくっていると、それはすごく器用なチンパンジーの芸に思えて来て僕はコミックを鞄にしまった。もうちょっとゆっくりしていたかったけれど、店のおばちゃんが早く帰るよう催促して来たので仕方なく自動ドアをくぐり、店を出た。

そのあと、家に帰った。時計は21時すぎを指していた。とりあえず、最近書くようにしている日記を書き始めた。でも、一旦書き始めるとあまりにも字数が多くなってしまって面倒な気持ちが上回って来た。音楽が聴きたくなって、ceroの「WORLD RECORD」を頭からかけた。bluetoothのスピーカーから流れて来たワールドレコードのはじめの痰を吐く音を聴いて、僕はいい気分になった。こうでなくっちゃ。

それからというもの、ゆっくりゆっくりと溜まっていた日記を溶かすように消化し(この時点でもはや日記ではない)、今に至る。
現在時計は午前3時前。全然眠くない。いつ寝ようかなぁ、寝たくないなぁ、そんな悩みをかかえている。さっき吸った苦手なタバコのせいで、声が少し枯れていて、スピーカーからはミツメのゆったりとした音楽が流れている。

さて、こんな夜は僕はいつ寝たらいいんだろう?

押し殺していた「理解されたい」

昔から、図工の成績が悪かったのを覚えている。
5なんて取れたことなくて、良くて3とか。

だから、苦手意識がついた。僕は図工のセンスもないし、まったく評価されないんだ。


そうやって、何か物事に苦手意識を持ってしまって、人から評価されることを恐れるようになると、いつしか「ふん、他人の評価なんて知らないぜ」となってしまう傾向がある。それは経験則から学んだ。


まあ、なんやかんやで僕は人並み、いやそれ以上に絵を描いたり写真を撮ったり、ものを作ったりすることを愛するようになった。
時々無性にスケッチしたくなって絵を描くこともあるし、ポスターのデザインもしたくなるし、首に安いデジカメをぶら下げて写真を撮りに散歩に出ることもある。創作することが好きなんだと後から気づいた。

でもそれは、趣味であり、あくまで自己満足の範疇にとどまるものであった。そう、他人の評価なんて必要ない。自分のコップになみなみと水を注げれば十分なのである。


そんな訳で、僕の制作物はちょっとズレてるものが多くて、そのせいできっと図工の成績も悪かったのだと、今になればこそ分かった。
理解されないのだ、自分のコンセプトが。

だからこそ反発していたのだけれど、たまたま自分に正直になれたときがあって、その時の僕の心はこう言っていたのだ。
「理解されたい。全てを分かってもらえて、褒めて欲しい。受け入れてほしい」

それで、はっとした。
本心では理解されたいのだ。されたかったんだ。

割とビックリして鏡を見たのだけれど、そこにはいつもと同じ自分がいてちょっと安心した。


だから、今日言いたいことはこうだ。結局、人間は理解されたい生き物だ。
だから、それに正直になればいいじゃん。



ということで、今日はお開き。チャンチャン。

深く穴を掘ることの困難さ

深く穴を掘ることの困難さ

 

穴を掘ったことはあるだろうか。

僕は、ある。それは小学六年生のとき。

 

友達と秘密基地を作っていた僕たちは、突然、穴を掘ろうぜということになった。

 

だからスコップとか持ってきて頑張って掘った。

 

でも、穴って全然深くならないのだ。

まっすぐ下には掘れなくなるからだ。

 

結局悪戦苦闘して、自分たちの肩くらいまで掘ったところで秘密基地作りは解散してしまったのだけれど

 

穴を掘ることの難しさだけが僕の心にぽっかりと口を開けている。

 

考えることって穴を掘ることに似ていると思うのは間違いだろうか

 

僕は穴を深く掘ることが苦手だ。

いつも浅い穴ばかりぽこぽこ掘っている。しかも穴を掘る時は書いたり声に出したりしてしまう。これはずるだよね。

 

だからなるべく深く掘れるように、訓練をしようと思ったんだ。

 

なんだっていい、あることについてひたすらじっとりとして離れてはいけない。

しかも手も口も動かしてはいけないのだ。

 

すると、普段軽く回っていた頭の中身が、歪になって回れないのだ。

 

くるしい、くるしいと悲鳴をあげる。

油をさしてよ、と悲鳴をあげる。

 

苦しむのは鍛えてる証拠だと思って、少し嫌な笑いを浮かべながらそれを続けてみた。

 

 

深い穴を掘るのは困難なことだ。

 

 

 

自転車

自転車

 

僕と自転車の歴史について記そう。

 

最初に自転車に乗ったのは、母の自転車のチャイルドシートだった。

プリンアラモードと一緒に自転車ごと横転したのは未だに覚えているんだから恐ろしい。

 

自転車に乗れるようになったのは、確か5歳か6歳くらいのとき。

近所の砂利道で練習させられて転びまくった記憶がある。すごく泣いてたな。

 

その後、買ってもらった水色の自転車。

小学3年くらいの時にギアが付いてなくて友達に馬鹿にされたものだ。

でもそんなこと言われたってしょうがないじゃないか。

 

悔しくてねだって、かっこいい自転車を買ってもらえました。スピードメーター付きで、時速30kmまで測ることができたのを覚えている。

潰れたジャスコの近くで乗ったのが懐かしい。

 

中学に上がって、ノーパンクのママチャリを買ってもらう。ノーパンクだけど、とても重くて、世の中の理不尽さを呪った。

何かを手に入れれば何かを失わなければいけないのだ。

 

そのまま高校まで乗り、その後韓国へ引っ越した友達のママチャリをもらった。

その韓国人の友人が乗っていたから「ストロングコリアン号」と馬鹿にされた自転車だった。理不尽は尽きない。

 

でもその自転車は有能で、片道40km漕いで高校野球の応援に行ったこともあったり、思い出の多い自転車だった。

元持ち主はその自転車でチキンレースをして、川に落ちたこともあったっけ。

 

そして大学へ。

入学祝いとしてspecializedというメーカーのクロスバイクを買ってもらった。

すごく嬉しいし、乗り心地にも感動した。スポーツ車はすごいのだ。

自転車部の新歓合宿とかも行ったけれど、結局そっちは入らず。1人で時々岐阜とかに行ったりし、普段乗りにも使っていたのだ。

しかし、今年の2月、バイト中に盗まれてしまう。僕はとても悲しくなってしまった。怒りは不思議と湧いてこず。

自分の管理不足がひどかったから、自転車が自由意思で散歩しに行ってしまったんだな、と自制しつつ、これからはもっときっちり管理しなければ、と珍しく強く決めた。

 

それからはドン・キホーテで買った一万円のママチャリに乗り、苦節を経て、9月に新たな自転車を手に入れたのだ。

 

それはピストバイク。ギア無しである。

またしても友達に馬鹿にされてしまう。

まあ、今回はそんな心配などなく、かの有名なbianchiから出ているpistaというモデルなので、クラシカルさも残しつつ結構かっこいい。

 

フレームもクロモリだし、とてもいい感じなので、この子のためにきちんとメンテナンスすべきである。

がんばります。

 

 

今日なんの話やねん、ほんまに。

 

 

石を集めた

石を集めた

 

子供の頃、石を集めていた。

 

別に特に珍しい石じゃないのだけれど、僕にとってそれらはとても大切できらきらしてみえていた。

 

近所で拾った大きな石を拾っては割り、まだ見ぬ大発見をその内に求めた。

 

一見無骨な石でも内側は意外ときらきらしているもんだよ

 

そんな石たちは僕の勉強机の引き出しに溜まっていき、重みを増していった。

 

 

 

何がきっかけかは忘れちゃったけど、中学生のときに集めた石を全部捨ててしまった。

 

多分僕にとって、宝石じゃない、自分だけの石は、価値を持たなくなっちゃったんだろう。

 

 

 

それから、しばらく時間が経って、最近になって、僕は自分の好みの石を取り戻したいと思った。

 

 

失ったものを再び手に入れるのは割に難しいらしい。

 

そういうわけで僕はいま、この文章を書いたりしているのだ。